教室に入るのが怖いなんて、言えない。
 そんな我儘なことを言って、近衛君を困らせたくない。
 いつまで過去をひきずってるんだ、甘えるな、って幻聴が頭を埋め尽くそうとする。

 ねぇ、お願い、ふみ込まないで。

「いや、気になって。
 一緒に過ごせたら、もっと沢山話せるのになって思ったんだ」
 
 多分、彼が言ったことはお世辞ではない。
 近衛君の言葉は有り難いし、嬉しいけれど。
 
 それだけに余計、胸が痛かった。


『…私は、今のままがいいかな』


 柔らかい口調を意識しつつ、目を伏せて暗に拒否した。
 
 私はどうしても、教室が怖い。

ー「やめて!
  もう、これ以上近づかないで!」

 暗くて、重くて、(みじ)めな記憶。
 思い出すだけで、辛くて、痛くて、苦しい。
 もう、あんな想いは…したくないから。

 ぐっと拳を握りしめていたら、ぽつりと「そっか」と呟いた近衛君。

「…無理は言わないよ。
 でも、いつか来てくれたら嬉しい」

 チラリと横目で見上げた時、近衛君は少し(さび)しげで、それでもやはり温かな微笑を浮かべていた。
 それを見て、何故だか無性(むしょう)に泣きたくなってしまった。
 どうしてこの人はこんなに優しいんだろう。

『ごめんね、ありがとう』

 とても申し訳なかったけれど、嬉しかった。
 不幸の(みぞ)を埋めるかのようにとても良い人と出会えたことを、ただ誰にでもなく感謝した。
 謝罪とお礼をささやくと、近衛君は何でもないかのように「気にしないで」と笑ったのだった。