「真白!!」
 
 愚鈍な私は、彼氏に引っ張られるまで、指1本動かす事が出来なかった。
 ただ、ナイフの先っぽが自分の体を貫くのを待ち続けていた。
 痛みを乗り越えれば、その先には優しさが待っている。
 私の体は、そう教えられたから。
 他でもない、この兄に。
 ナイフは、私の後ろ髪をほんの少し切った。
 はらりと、髪が舞うのを見る間もなく、彼氏は私を引っ張って走り出した。
 同時に、運悪く同じ車両に乗ってしまった可哀想な乗客たちの悲鳴と、非常ベルの音がけたたましく響く。
 でも、私の耳に最も届いたのは、兄の私を追いかける足音。
 ペタペタと、情けなさも感じさせる音の正体は、使い古された革靴の、すり減った底。
 着ているものは、Tシャツとジャージなのに。
 その組み合わせもまた、真白に訴えかけてくる。
 お前だけ幸せになるのは許せない、と。

「お願い、離して! お兄ちゃんと話をさせて!」

 私は、私を救おうとしている人間の好意を無駄にする願いを投げつける。

「バカ! 殺されたいのか!」

 彼氏は、私の顔を見ずに走りながら叫ぶ。
 もし、彼氏が私を見てくれていたら、何か変わっていたかもしれない。
 兄のサバイバルナイフが、彼氏に向けられている事に彼自身が気づき、避けられたかもしれないから。
 でも、それが無理だと分かったから。
 彼の、心臓に最も近い背中を鈍くひかるナイフが抉ることは、許せないと思ったから。
 私は彼の背中ごと抱きしめて、ナイフを受け止めることを選んだ。
 痛みよりも、虚しさと悲しさと申し訳なさが私の視界を暗くした。
 それから、私の左頬が電車の床にくっついたタイミングで、誰かが私に覆い被さった。
 シトラスの制汗剤の匂いが強くなった。彼の匂いだ。
 私の肉体の記憶は、これが最後。
 次に目覚めた最初の記憶は、古い紙のくすぶった匂いとスマホに表示された7月31日に驚いた、私の心臓の痛みだった……。