数分の間、呆然と立ち尽くしていたシルディアだったが、苦しそうな声に我に返った。
 ベンチで横になる皇太子の傍にしゃがみ、顔を覗き込む。
 漆黒の髪の下には青白い肌が見え隠れしていた。
 クマの酷い目は、今はきつく閉じられている。
 シルディアは眉を下げ、目元にくっきりと刻まれたクマを指でなぞった。

「酷いクマ。……まぁ、この国と皇国は敵国だもの。寝れなくなってもおかしくはないわ」
「ん」
「あ」
「お前、は……」

 開いた目が訝しげにシルディアを捕らえ、シルディアの腕を掴んだ。
 勢いよく地面に押し倒され、シルディアの口から痛みに呻く声が漏れた。

「い、った」
「何が目的だ?」
「あなたを見ておけって、皇王陛下に頼まれたのよ」
「は? ……あんの、頭お花畑野郎が」
「いや、流石にそれは不敬じゃない?」
「いいんだよ。俺は」
「意味わかんない。というか、早く退いてくれない?」
「ちっ」

 渋々だと顔に書いてあるが、シルディアの上から退いた皇太子は、ベンチに座り直し足を組んでふんぞり返る。
 手を差し出すことなくベンチに座った皇太子に、内心怒りを覚えたが、シルディアは顔色一つ変えず立ち上がった。

「横になっていた方がいいと思うわよ」
「寝ている間に何されるか分からないからな」
「はぁ。そんな青い顔で言われてもね。いいから休んでいたら?」

 ベンチの前へ座れば、後ろで息を呑む音がした。

「べつに戦争を起こしたいわけじゃないもの。だからわたしはあなたを襲ったりしない」
「ふん。どうだか」
「それじゃ素話(すばなし)でもしてあげましょうか?」
「……好きにしろ。俺は寝る」

 ベンチの軋む音にシルディアが後ろを向けば、皇太子がこちらを向いて寝ころんでいた。
 神秘的な赤い瞳から目を離せない。

「あ? しねぇのか、素話」
「……はぁ」

 シルディアはため息を一つ零し、何度も読んで覚えてしまった絵本を思い出す。
 それはアルムヘイヤの国民なら誰だって一度は耳にしたことのある物語だ。
 身振り手振りを加えながら詰まることなく喋る。