吉田健三 46歳。 小さな商事会社の従業員である。
一人暮らしの寂しさを焼酎で紛らわしながら生きている。 これといって取り柄も無く目立つことも無い。
こんな俺でも心に残る恋が有ったんだ。

 いつものように仕事を終えた健三は古いアパートへ帰ってきた。 夏の暑い盛りである。
そこここの家の前にはすだれが立てかけられ、打ち水がされている。
そこいらの奥さんたちは買い物帰りだろうと用事の途中だろうとお構いなしに立ち止まって井戸端会議に余念がない。
今だって誰が浮気したの喧嘩したのと大声で喋りまくっていらっしゃる。
「いいじゃねえか。 所詮人の子よ。 一人じゃあ寂しくて居られんのじゃろうてなあ。」 健三はぶつくさ言いながら玄関を入る。
すっかり焼けて色が変わってしまった居間の畳の上には、これまたすっかり古ぼけてしまった卓袱台がドンと構えている。
「おー、健三か。 今帰ったのか?」 昔はドッカと腰を下ろした親父が日本酒を飲みながら巨人を応援していた卓袱台である。
ふと時計を見るともう6時である。 「さて、飯を炊くか。」
西日の当たる台所に入った彼は窓を開け放してから米を取り出した。 蝉の大合唱が聞こえている。
「うっせえなあ。 分かったから静かにしてろや!」 誰に言うともなく文句を言いながら、研いだ米をガス炊飯器にドサッと入れて火を点ける。
 居間に戻ってきた彼は読み捨てた雑誌を拾い集めてから溜息を吐いた。 大した話題の無い雑誌ばかりだ。
雑誌を放り投げると汗臭い体を畳の上に投げ出してみる。 遠くには公園が在る。
健三だってよく遊んだ公園だ。 しかし今では泥だらけになって遊ぶ子供も少なくなっちまった。
 子供ってのは外で泥だらけになって遊ぶもんだ。 部屋の中でいい子ぶったってろくな大人にはならんぞ。
彼は最近もてはやされている「いい大学 いい会社 高い給料 いい人」というのがどうも気に入らない。
勉強がいくらで来たってろくでもない人間はたくさん居る。 問題は中身だよ。
中身さえ良ければ人様は勝手に信頼して付いてくる。 そうじゃないか?
 しばらくゴロゴロしていた健三だが、起き上がると何を思ったのか二階へ上がっていった。
掃除すらまともにやっていない部屋だが、子供の頃によく遊んだ部屋である。
床には粘土やら折り紙やらがあっちこっちに散らばっている。 粘土の塊を取り上げてみる。
(そういえば松代はどうしてるんだろうなあ?) 松代が飯事をしていた粘土である。
「ねえねえ、健ちゃん 飯事しようよ。」 「飯事?」
「そうそう。 健ちゃんがお父さんで私がお母さん。」 そう言って楽しそうに遊んでいた松代、、、。
あれだってもう30年以上前のこと。 松代はもうこの町には居ないんだ。
東京オリンピックで盛り上がっていた昭和38年に松代はこの町を出て行ってしまった。 誰もがそうだったようにね。
あれ以来、松代のことは何も分からない。 何処で誰と居るのかも。

 松代は健三の幼馴染であった。 近所じゃ噂になるくらいの仲良しだった。
健三が住んでいるこのボロ屋の向かい側に長屋が建っているが、松代の家はその一番右端だった。
親父さんは鉄工所を経営していて、手の大きな気前のいいおっさんだった。
出張に行くと決まって俺に土産を買ってきてくれたもんだ。
「まあ、そんなことまでさせては、、、。」 母さんはいつも日本酒を抱えてお礼に行く。 すると、、、。
「いいんだよ。 松代と遊んでくれているからほんのお礼のつもりだから。」 「そうは言いますけど、こうたびたびでは気が済みませんよ。」
「そうですか? そこまで言われるなら有り難く飲ませてもらいますよ。」 そして照れ笑いをしながら俺の頭を撫でるんだ。
「これからも松代と遊んでやってくれよ。」
 そんな親父さんだったが、7年前に癌で亡くなってしまった。 鉄工所も人手に渡ってしまったと聞く。
(ここもずいぶんと寂しくなったもんだなあ。 あれだけ賑やかだったのに、、、。)
 一階へ下りてくると何か忘れているような気がする。 彼は冷蔵庫を開けてみた。
「そうだよそうだ。 サンマを焼こうと思ってたんだ。 焼くか。 なあ、サンマちゃん。」 玄関の隅に置いてある七輪に豆炭を入れて火を起こす。
仰ぎながら頃合いを見ていると悲しいラッパの音が聞こえてきた。
パープーパープー 「豆腐だよー。 美味しい豆腐は要らんかねえ? 豆腐だよー。」
豆腐屋の玉蔵じいさんが三輪車を漕いで豆腐を売りに来たんだ。 何ゆえに哀しげなのかねえ あのラッパは。
「一丁おくれ。」 「あいよ。 出来立てだから美味いぞ。」
「それはそれは、お墨付きだわよ。」 「毎度ねえ。 おつりだ。 これからもよろしく。」
「景気はどうだい?」 「まあまあだなあ。 昔よりは売れんで困っとるよ。」
「スーパーのやつより美味いがねえ。」 「そう言ってくれるのはあんたらだけだ。 またよろしくな。」
じいさんはまたラッパを吹きながら走ってきた。 途中でとめさんの声が聞こえた。
「やあ、玉さんじゃないか。 奥さんはどうだい?」 「最近は俺のことも分からんようになったらしい。」
「そらまた寂しいなあ。」 「喧嘩も出来んようになったでな。」
 じいさんはまたまたラッパを吹きながら走り始めたが、、、。
「よう、健三は居るか!」 ガタンと扉を開けて入ってくる。
「そんななあ、吠えんでも目の前に居るわいな。」 健三は七輪の番をしながら玉蔵を見上げた。
「お、健三 今夜も飲むんやろうて、大きいのをくれてやるぞ。」 じいさんは取って置きの大きな豆腐を取り出すと健三の隣に座った。
そして毎度のタバコを取り出すと美味そうに吸い始めた。