ミシェルはようやく思い出した。
自分が何者で、どうしてここにいて、彼が何者なのか、全て思い出した。
そして気がついてしまった。
今も昔も、自分はザキエルに片思いをしているだけの、ただの田舎娘であると知ってしまった。
「で、殿下は……わたしが、要らんようになったんですか」
悲壮な顔で自分を見つめる水色の水晶玉に、ザキエルは息を呑む。
「崖から落つるような、不注意な女だから」
「ま、待ってくれ。何を」
「だから、置いていってしまうと。傍にいたら、迷惑……」
「そんなことはない!」
「でも、明日、帰ってしまうんでしょう?」
泣きながら俯くミシェルに、ザキエルは混乱の極みだった。
ミシェルが言っていることを要約すると、なんだかザキエルにばかり都合のいい結論に至る気がする。
そんなはずはない、だってザキエルは――。
「俺は、君に迷惑をかけてばかりで」
「迷惑?」
「居たくもない場所に、君を閉じ込めた」
「……?」
「君は、俺のことをなんとも思っていないだろう?」
「……なんとも?」
不思議そうな顔をしているミシェルに、ザキエルは最後の力を振り絞る。
「俺が毎日君に会いに行って、邪魔だったのでは」
「沢山構うてくれて嬉しかったです」
「……! 王宮の様子にも困惑していた」
「はい」
「そ、そうだろう。早く出ていきたいと……」
狼狽えるザキエルが何を言いたいのかはよく分からないが、ミシェルは自分の気持ちを素直に話すことにした。
「贅沢すぎて、いつか出ていくと分かってました。殿下もみなさんも優しゅうて、夢みたいな場所やったです」
王太子宮で過ごした三ヶ月は、ミシェルにとっても大切で、かけがえのないひと時だったのだ。
その心からの笑顔に、ザキエルのボロボロだった恋心がようやく息を吹き返した。
ザキエルの天敵聖女であるミシェルがその場にいなければ、その場にある花という花が全て開花し、季節を超越した奇跡の光景を見ることができたであろう。
「……ミシェル」
「はい」
「俺の君への気持ちは、きっと君が俺に抱いているものと違うと思う。……君を愛しているんだ」
愛、と呟き呆然としているミシェルに、ザキエルは懸命に続ける。
「俺が傍にいることが、本当に迷惑でないのなら……結婚してくれないだろうか」
ミシェルは、心が震えるのを感じた。それは、ミシェルが憧れてやまない言葉で、お互いだけを特別に扱うという大切な約束のはずだ。そんな大切な約束を、ミシェルと交わしてくれるというのだろうか。
それに、彼は王子様だ。いや、正確には王兄なのだが、ミシェルには違いがよく分からない。王子様なのに、勝手にミシェルなどとの結婚を決めていいのか。
様々な疑問が頭を駆け巡る中、それでも嬉しくて嬉しくて、真っ赤になって黙っているミシェルに、ザキエルは返事を催促する。
「ミシェル」
その優しくて、不安を帯びた響きに、ミシェルは陥落した。
「もう、意地悪ば言わんね」
「……意地悪?」
「必要なかとか、他ん人に聞けとか」
「言わない!」
「前んごつ、沢山お話したいです」
「沢山話そう。毎日会いに行くよ。いや、一緒の部屋に……その……」
「ザキエル殿下は、わたしに望むことはなかとですか?」
ある。ミシェルにして欲しいこと、一緒にやりたいことは山程ある。
けれども、そんな望みより先立ったのは、不安だった。ザキエルは彼女と一緒に居るためならなんでもするというのに、彼女の望みはささやかすぎる。
「……君は、他に俺に望むことはないのか。本当に、してほしいことは」
ザキエルの赤い瞳は不安そうに揺れていたが、ミシェルは顔を綻ばせた。ザキエルはミシェルよりも賢くて、彼女の考えなど全てお見通しだからこそ、こんな質問をしたのだと思った。ミシェルが我慢していた想いに、彼は気がついていたのだ。もじもじと手元を見ながら、「その……本当は……」と躊躇っているミシェルを、ザキエルは何度も「ミシェル」「聞きたい」と促す。
「前よりもっと沢山、一緒に居てほしかと」
ザキエルはミシェルを勢いよく抱きしめた。
ミシェルの気持ちが嬉しくて、ザキエルは天にも昇りそうな心地だった。ミシェルにとってのザキエルが、その他大勢の一人でも、もう構わない。彼女がザキエルでいいと言ってくれるなら、今はもうそれだけで十分だ。
一方、ミシェルは突然のことに慌てていた。ザキエルが泣きそうな顔で喜んでいるから、頑張ってされるがままになっているが、この状況が長く続くのは非常に困る。決して嫌ではないけれども、落ち着かない上に恥ずかしくて仕方ないのだ。
しかもザキエルはその状態で「いつか君の特別になりたい」と囁いてくる。なんて意地悪な人なんだろう。ザキエルはとっくに、ミシェルにとって一番特別で大切な人なのに、こうしてミシェルの心の奥にどんどん入り込んでくるなんて、本当は悪い人なのかもしれない。
こんなふうにザキエルがミシェルの心を攫ってしまうから、ミシェルは自分を律するためにも、ザキエルにきちんと言っておかねばならないことがあった。
でないと、彼女はいつまでもずっと、ザキエルにしがみついてしまう。
「……あの、わたし、ちゃんと分かっとりますから」
「うん?」
「おばあちゃんから習うとります。普通ん人は、一人の人とだけ一緒におる約束ばするばってん、王子様は違うったいって」
その嫌な予感しかしない発言に、ザキエルは蒼白になる。
ミシェルは、祖母の言葉を思い出す。
曰く、王子様だけは沢山の人と結婚しないといけないらしい。
ミシェルは両親の言葉を思い出す。
曰く、結婚というのは、一緒にいるという約束を、一人の人とだけ交わすことをいうらしい。
祖母も両親も、ミシェルに嘘を教えたりしない。
だとすれば、こういうことだ。
「ザキエル殿下は王子様でしょう。沢山の人と結婚しないといけないのに、わたしとずっと結婚していたら、次の人と結婚でけんですもんね。子どもがでけたら身ば引いて出て行くので、安心してくださいね」
ザキエルは気絶した。
鈴のなるような声の、悲鳴が上がった。