記憶を失った後も、ミシェルの心のうちに(くすぶ)る寂しい思いは変わらず残っていた。
 そしてそれだけではなく、ミシェルの心にはいつも彼女を呼ぶ優しい声が残っていて、だからこそミシェルは、自分の名前だけは覚えていることができた。

 川下に流れ着いたミシェルを見つけてくれたジキルとヘレンは優しかった。村外れに住む彼らの家に若い娘が来たとたいそう喜んでくれた暖かい夫婦だ。一人息子のマイクも親切だった。彼が優しくしてくれるたび、胸の内の彼の面影が頭をよぎって、ミシェルは嬉しいようなもどかしいような気持ちでいっぱいだった。

 そしてある日、洗濯物を干している最中に、なんだか家の中から気になる気配がした。とても心惹かれるような、暖かくて大切な何かがいるという感覚。ミシェルは急いで洗濯物を干し終えて、家の中に入る。
 するとそこには、焦茶色の髪で燃えるような赤い瞳の彼がいた。ミシェルの知らない人だ。突然現れた彼女をみて、大きく瞳を見開いて驚いている。
 ミシェルは、彼と話をしたくて仕方がなかった。でも、こちらから話しかけるのは恥ずかしい。そんな思いから、ミシェルはジキルとヘレンの夫婦に話しかけつつ、なんでもないふうを装って、意を決して彼に話しかけた。

「ミシェル」

 その優しい声音に、じんわりと胸が温かくなる。
 嬉しくて、なんだか懐かしくて、ミシェルは彼に夢中になった。

 彼は、物静かで、穏やかに笑う人だった。名前をザキエルといって、村のみんなが言うには、お金持ちの騎士様とのこと。記憶を失う前のミシェルを、3ヶ月ほど引き取って面倒をみてくれていたらしい。それなのに、ミシェルは足を滑らせて崖から落ちて、行方不明になってしまったというのだ。なんという恩知らずなことだろう。

「いいんだ。全て、俺がしたくてしていたことだから」

 気にしなくていい、というその響きが、どこか悲しくて懐かしい。
 ミシェルは彼ともっと話がしたくて、村長にそれとなく彼に関して手伝いをしたいと申し出たところ、「あーあー、そうだナー、ワシだけでは客人のお相手ができないからナー、誰か手伝ってくれると嬉しいのダガー」と、何故か棒読みで訴えられたため、そのまま客人であるザキエルの話し相手役に就任した。ミシェルは嬉しくて仕方がなかった。

 けれども、そんな喜びも束の間だった。