まあ、食ってしまいたいくらいには。



どくん、と心臓が大きく跳ねる。



……愔俐、先輩?

今わたしの後ろにいるのは、愔俐先輩なの?


背中越しに伝わる静かな気配に、意識をもっていかれそうになる。


愔俐先輩の、あの冷たい視線を思い出す。

人を殺していると信じて疑わなかった、一切の感情が含まれていない瞳を。



敬郷先輩が、ごめんねとわたしに謝った。



「俺も本当はこんなこと、したくないんだけど」



さっきとは打って変わって、心底弱ったような顔。


傍から見たらそれはいつもの心優しい敬郷先輩で。

次の言葉さえなければ、わたしも彼を信じてしまっていたかもしれない。



「逆らえば俺も愔俐に殺されてしまうんだ」

「……殺されて」

「そう。だから、仕方なかった……」



ここでわたしが警戒して愔俐先輩を振り返るのを、きっと待っていたんだろう。


前門の虎、後門の狼。


だけど、この人はひとつだけ誤算をしていた。



わたしは
後ろにいるのが狼じゃないと、知っている。



「愔俐先輩はそんなことしない」



振り返らなくてもいい。

むしろ安心して背中を見せられる。


後ろにいるのが愔俐先輩だと教えてくれたことに感謝したいくらいだった。



ふっと後ろで息を吐く気配がする。





「だ、そうだ。残念だったな。敬郷」



それは紛れもなく愔俐先輩の声だった。


こんな状況でも変わらず落ち着き払った声色に、わたしもほんの少し冷静さを取り戻す。




────すうっ、と。

今度こそ、敬郷先輩から笑顔が引いた。




「あーあ。騙されてくれると思ったんだけど」



眼鏡の奥にある瞳は、深淵のように穏やかで。

それでいて、どんな暗闇よりも黒かった。