クロエの予約してれた宿は、メソン島一番の宿だった。その中でも、一番上等な部屋を用意してくれていた。

 入り口のドアを開けると、正面はリビングルームで窓からは夕日に染まった海が見えた。

 イディオスはティアを抱いたまま、入り口近くのドアを開けた。
 そこはベッドルームだった。大きなベッドがひとつある。中央にはブーゲンビリアでハート型が作られていた。

 クロエは、イディオスとティアを恋人同士だと思い込んでいた。
 女嫌いで有名なイディオスが、ティアと一つ屋根の下で暮らしているのだ。勘違いしてもしかたがない。

「……」

 ティアは言葉を失った。
 さっきまでの涙も驚きのあまり引っ込んでしまう。
 ティアはイディオスの腕の中でワタワタとした。
 キュアノスもティアの肩でキュキュキュと鳴く。

「すみません! 私、別の部屋を取ってきます!!」
「少し落ち着け、そんな顔でロビーに行かれては、俺がなにかしたかと思われる」

 イディオスに言われて、ティアはゴシゴシと目を擦った。

「擦ったらいけない。キュアノス、布団を少しどけてくれ」

 イディオスはそう言うと、とりあえずベッドの上にティアを降ろした。

「心配するな。どうせ、俺は人を愛せないのだから、あなたを困らせるようなことはできない」

 イディオスの言葉にティアは複雑な気分になる。
 悲しい呪いだと思う。

 ふたりでベッドに腰掛ける。
 キュアノスは慰めるようにティアを舐める。
 イディオスは氷水で冷やしたタオルで、ティアの瞳を押さえた。

 その冷たい優しさがまるでイディオスのようで、ティアはしんみりと落ち着いてきた。

「……ごめんなさい……クレス様が変なことを言って……。私、ちゃんと、大丈夫ですから……、好きになったり」

 言いかけるティアをイディオスは遮った。

「いや、わかっている。もう言うな」

 これ以上ティアに「好きにならない」と言われたくなかった。

 ティアは「わかっている」と言われ、ホッとし、心の片隅で傷ついた。

 やっぱりイディオスは私に好きになってほしくないんだ……。でも、気づかれなくて良かったじゃない。まだ、そばに入れられるもの。一緒に暮らしていけるもの

 そうティアは自分自身を慰める。

「……しかし、あの男はティアのなんだ? あなたはあの男のものなのか?」

 イディオスは表情には出さないものの、胸の奥がたぎっている。「私のティア」と臆面なく呼ぶ男が気にならないわけはなかった。

 ティアは瞼を押さえるイディオスの手をのけた。

「違います!! クレス様は私の先生のような方で、変な言い方はしますが、別にそういうのでは……。孤児院の子供たちには誰にでも……」

 言いかけて、口を噤む。

 そう言えば、クレス様、「私の」なんて言い方、ループ前は一度もしてなかったような……?

「キュ!」

 キュアノスが主張するようにティアの膝に乗った。
 そして、寝転がれというようにティアの肩をグイグイと押す。

「キュアノス、くすぐったいよ」

 ティアが笑う。

「横になれと言っている」

 イディオスが通訳してくれて、ティアは大きなベットにゴロンと横になった。
 キュアノスは満足げにティアの横に寝そべる。そして、ティアの目元を舐めた。

 キュアノスを挟んで向こう側にイディオスも寝転がる。
 そして、ベッドに散らばったティアの髪を愛おしげに撫でた。

「俺はティアのことをなにも知らないな。良かったらあなたの過去を教えてくれないか」

 ティアを見つめる青い瞳が優しい。その中にティアが映り込んでいる。青い空と海に挟まれた夕日のようだ。

 ティアは静かに頷いた。
 そして、自分の生い立ちと、孤児院での暮らしを話した。しかし、ループのことは話せなかった。

 ループ前にイディオスの妻にされそうになったこと。噂だけを信じ、イディオスを恐れ、入水することを選んだこと。どちらを知られても軽蔑されるのではないかと恐れたのだ。

 しばらくして、イディオスはベッドから起き上がった。
 ティアは話し疲れたのか眠っている。

 イディオスは、ティアの手首のボタンを外した。ウエストのバッグを取り外し、リボンを緩める。眠りやすいように、首元も開く。

 そして、ティアの髪を一筋梳くって口づける。指先が震える。喉が酷く痛む。ゴホと咳き込み、口から血を吐く。

 これが限界なのか――。

 イディオスは自分の手のひらの血を握りこんだ。
 
 キュアノスは一瞬イディオスを横目で見て、そのまま目を閉じた。 

 イディオスは小さくため息をつき、ティアとキュアノスに布団を掛けてやり、ベッドルームからリビングに移る。


 ティアの話を聞き、クレスという男がティアの支えになっていたことが感じられた。ティアは師弟関係だと笑っていたが、相手はそう思っていないのは明らかだった。

 自分に向けられる欲情めいた視線は気味が悪かったが、ティアに同じ視線が向けられるのがこんなにも不快だとは思わなかった。

 さっきのように情熱的に口説き続けられたら、もといた場所へ帰りたいと思うのではないか。貧しいドラコーン島より、豊かなルタロスのほうが暮らしやすいはずなのだから。そもそも、連れてきて良かったのか、今ティアは幸せなのか。
 
 イディオスはなにもかも不安だった。
 見た目に惹かれて集まってくる人々は、イディオスの薄情さに幻滅して去って行く。人を愛せない呪いがかけられていることを知っている上で、近寄ってくるのに身勝手だ。
 
 でも、ティアだけは違った。初めはイディオスを拒絶していた。剣を突きつけた男なのに、信じ、優しいと言ってくれる。
 ティアだけが、イディオス自身に向き合ってくれたのだ。

 しかしこのままでは、いつかティアにも愛想を尽かされてしまうのではないかと怖くなる。

 イディオスとティアとのあいだにはなにもない。キュアノスのような主従関係で結ばれているわけでも、クレスのように師弟関係でもない。

 しかも、好きになったら嫌われると思われている――。

 まずは誤解を解かなければならないと思った。

 自分の気持ちを伝えなければ。しかし、自分の気持ち、とは? 俺は――。

 そう思ったとたん、喉が引き攣れた。
 魔女の呪いだ。何度となく感じていた違和感。その理由にようやく気がついた。

「俺はティアが――」

 その先の言葉は喉で張り付いている。やはり声にはどうしてもならない。

 喉を叩いても、声は出ない。無理して言葉にしようとしたら、代わりに吐血した。

 話せないなら、手紙を書こう。

 イディオスは備え付けの便せんに文字を書いてみる。
 しかし、指先が凍えたように震える。

 たった一言、『ティアが好き』だという文字が書けない。

 イディオスは辞書をめくった。『好き』と同じ意味の言葉で、書ける文字を探そうとしたのだ。
 気持ちを伝えようとこんなに必死になったのは初めてだった。
 
 ―― 君を夏の日に例えようか ――

 やっと綴れたのはこの一文。古い詩の書き出しだ。しかし、貴族でもごく一部の者しか知らないような古典だ。幼いティアにはわからないだろう。

 イディオスはそれでもその紙に、日付とサインをしたためた。
 封をして、ティアの名を書く。渡すあてもなく、胸のポケットにしまった。