クロエの店での騒ぎを知らない、イディオスとティアはメソン島を楽しんでいた。

 聖女だったティアは、ループ前の人生では自由に旅行などできなかった。そのため、見るものすべてが新鮮だ。

「わー! あっち、あっちへ行っても良いですか!」

 まるでイディオスのことなど目に入らないというように、手を離して階段を駆け上がっていく。
 イディオスはそれを見て、微笑ましく思った。
 今までの人々は、どこへ行ってもイディオスばかり見ていた。そして、なによりもイディオスが美しいと媚びるのだ。
 そんな彼らを気持ち悪いと思っていた。

 階段を上りきり、ティアは逆光の中振り向いた。ブーゲンビリアのような髪が、海風になぶられる。

 ティアは太陽みたいに眩しい。

 イディオスはそう思い、目を眇めた。

「早く来てください!! 海も空も真っ青です! イディオスの瞳みたい!!」

 ティアは屈託なく叫んだ。

 イディオスは嬉々として階段を駆け上がる。
 そして、そんな自分がおかしいと思う。
 今までだって、なんども海や空に例えられてきた瞳だ。嬉しくもなんともなかった陳腐な言葉。それなのにティアに言われると嬉しいのだ。

 ティアの横に並び、海を見る。
 幼いころから親しんできた風景。イディオスにすれば当たり前の風景。
 でも、ティアは心底嬉しそうに両手を広げた。

「気持ちいい~!!」

 そして、神聖力をためるように瞼を閉じて大きく息を吸う。

「まるで海と空に抱きしめられているみたい」
「キュキュキュ!」

 キュアノスがティアの肩で、同じように深呼吸をする。
 イディオスも真似をして深呼吸をする。

 温かい空気が胸を満たしていく。

「イディオスはこんなに素敵なところで生まれたんですね。私、やっぱり来て良かった!」

 ティアが微笑んで、イディオスはギュッと胸が痛くなる。

 息苦しくて、逃げ出してきたメソン島。イディオスにとっては嫌な記憶ばかりで、できれば帰りたくない場所だった。
 それが、ティアと一緒にいるだけで、輝かしいものに塗り変えられていく。

「……ティア」

 意味もなく名前を呼べば、ティアは小首をかしげてイディオスを見た。
 イディオスはハッとする。
 ただ名前が呼びたかっただけだと気がついたのだ。

「あ、……いや、……ほかにどこに行ってみたい?」
「うーん、あんまり人がいないほうが良いですよね?」

 ティアは思う。
 イディオスが歩くだけで歓声が上がる。こんな状態は人嫌いのイディオスには辛いだろう。

「いや、あなたとだったら、どこにでもいける」

 イディオスは微笑んだ。
 ティアは恋物語のようなセリフにクラリと目眩を感じた。バクバクと心臓が高鳴る。

 だめよ! 好きになっちゃいけないの! 好きになったら嫌われるから!!

 ティアは自分自身を鼓舞する。

「ぅえ、あ、……う、でも、人に囲まれるのは嫌でしょう?」
「ああ、嫌だった。しかし、ティアと一緒にいるとうるさい雑音が聞こえてこない。視線も半減して感じる。だから、いつもだったら楽しめない町も、今日なら楽しめるかもしれない」

 イディオスの本心だった。

「しかし、あなたにも迷惑がかかってしまいますね」

 イディオスがシュンとして、ティアはブンブンと頭を振った。
 ティアはもともと大聖女で、大勢の目にさらされているのは慣れている。なんなら大衆に囲まれて十二回も入水したのだ。
 今さら人目を気にすることはなかった。

 それに、イディオスが女性に慣れるチャンスだもの。協力しなきゃ!

「イディオスさえ良かったら、今日はいっぱい楽しみましょう!」
「ああ!」
 
 町中に散らばっている嫌な記憶も、ティアと一緒だったら塗りかえることができそうだった。
 
 ふたりは手を繋いで町の中を歩く。
 クロエのくれた地図を頼りに、流行りの店で食事をすることにした。

 
 カジュアルなスタイルでも楽しめるオープンカフェだ。裕福な商人や、貴族たちもお忍びで来るようなカフェだった。
 海の見えるオープンテラスに通される。こちらの席を案内されるのは、お洒落だと認められた者だけだ。

 小麦と古代麦の混ざった薄い皮に、たっぷりの肉と野菜が詰まっているものが運ばれてくる。
 ティアが食べてみたいと注文したのだ。
 手づかみで簡単に食べる軽食だが、美しく食べることができないため、令嬢はあまり食べたがらないものだ。

 ティアはためらいなく手で掴み、あーんと大きく口を開ける。
 ガブリとかぶりつき、唇の端には肉汁が漏れた。

 その食べっぷりに、イディオスは気持ちよくなる。
 
 テロリと光る唇の端にイディオスが指を伸ばすと、キュアノスがパシリと指先を払って、見せつけるようになめ取った。

「!」

 イディオスとキュアノスのあいだで火花が散る。

「美味しい~!!」

 ティアはふたりの争いに気づかず満足げに微笑む。

「こっちはなんですか?」
「これは卵とレモンのループ、こっちは葡萄の葉で包んだものを煮たものだ」
「こっちも美味しそう! ドラコーンに比べて食材が多いんですね」
「こちらは温かいし、商業も盛んだからな」
 
 幸せそうに食事を楽しむカップルに、町ゆく人々が目を奪われていく。
 
 ティアは運ばれてきたパイにフォークを入れた。木の実がたっぷり入ったパイは、サクサクとして木の実の甘みが口の中に広がる。
 地味な見た目だが美味しいケーキだ。

「こっちも美味しい! パイがサクサク!! 中身が木の実だから、ドラコーンでも作れるかしら?」
「さぁ、俺にはわからないが、あとでレシピを聞いてみよう。ティア、こっちも食べてみるか?」

 イディオスはチーズを焼いたものをフォークに差し、当たり前のようにティアに差し出した。
 
 もう! イディオスはすっかり私を仔ドラゴン扱いね!

 ティアは思いつつ、アーンと口を開ける。食欲と楽しさに負けたのだ。

 イディオスは自分の意外な行動に驚いた。
 今までは人目を気にしてできなかったことが、ティアとなら気にならない。

 食事を終えて町の中を歩く。
 白い町並みの中に、煌めくルビーピンクの乙女。太陽のように笑って、周りを温かくする。

 このままずっと一緒にいたい。

 イディオスは思ってハッとする。
 
 いままで誰かひとりにこんなふうに思ったことなどなかったな。

 喉の奥がなぜかヒリつく。
 
 イディオスの向かいから花売りの少年が歩いてくる。その子から、白いブーゲンビリアを買い、ティアのポニーテールに差し込んだ。
 なんとなく、そうしたかった。

 ティアは驚いて目を丸くした。

「ありがとうございます!」

 こんな些細なもので花咲くように笑うから、イディオスは胸が苦しくなった。

「たいしたものじゃない」
「イディオスの好きな花でしょう? 嬉しいです」

 ティアはウフフと満足げに笑い、ブーゲンビリアに花が長持する魔法をかけた。

「では、これは私から!」

 ティアはピンクのブーゲンビリアを買い、イディオスの胸ポケットに差す。そして、同じく長持する魔法をかける。
 イディオスの胸にポッと赤い灯がともったようだった。

 なんとも言えない衝動が、イディオスを突き動かす。
 
 言葉にしなければいけないとわかっていても、その言葉は呪いによって凍らされている。

「すまない」

 イディオスはそういって、ティアをギュッと抱きしめた。
 ティアは驚き、それでもイディオスを受け入れる。
 きっとなにか理由があるのだと、そう思ったからだ。

「ティア」
「はい」
「ティア」
「なんですか?」
「……ティア、……言葉にできないなにかが喉につかえて苦しい……」

 喉が焼け付くように痛い。呪いが喉でつかえているのだ。

 ティアもイディオスの呪いの気配が伝わってくる。禍々しく冷たい魔力が、イディオスを蝕んでいる。
 イディオスの抱擁の意味がわからなくても、必要とされていることはわかるのだ。
 ティアは目を瞑って、子供をあやすようにイディオスの背を撫でた。

 きっと今、この人が欲しがっているのは聖女の癒やしなのだろうから……。

 十二回の人生で病める人々にずっと施してきたように、ティアはイディオスを慰めた。

 イディオスは静かに顔を上げた。
 その顔は苦悩に満ちている。

「違う、ティア、俺は」

 言いかけた言葉はやはり言葉にならない。イディオスは慰めが欲しいのではなかった。ティアからの特別が欲しかった。しかし、それは声にならないのだ。

 ティアはせかすことなく、ジッと続きの言葉を待った。
 
 そのときである。

「ティア! やっと見つけました! 私のティア!!」