(可能性はある。下界に降りる際に刀夜は、この国を「皇国イルテア」と言っていた。……先遣隊の報告による情報かもしれないけれど、天界で刀夜が眠りにつくことはなかった。父の補佐をしつつ、下界に向かうことは出来る)

 陽兄と、刀夜と私の約束した未来。
 それは「龍神族も人間も変わらなく同じ国で生活して暮らす」──そんな夢物語のような、奇跡と思えるような夢を私たちは願い、叶えようと邁進した。
 陽兄は王女と結婚し、その国を理想郷にしようとして失敗。その結果、兄は邪龍となって国一つを壊滅して滅んだ。
 もっとも最悪の結果となって終わったのは、つがいであり伴侶の彼女が逃げたからに他ならない。彼女は愛する夫を見殺しにして自分だけ逃げたのだ。

 人間は醜い。
 平気で裏切る。情など一時的なもので、損得勘定で動くような者たちしかいない。当時はそう思っていた。そんな人間しかいなかったのだ。
 それを数百年単位で刀夜は変えたのだろうか。

(圧倒的な力で滅ぼすのではなく、時間をかけて龍神族と人間の溝を埋めて畏敬を崇高なる者へとすり替えたのだとしたら? すでに私が何か出来るという次元じゃないとしたら……私はどう動くのが正しいの?)

 武力行使による反乱ならば多少役には立つだろう。だが現状、魔物の襲撃以外に脅威らしいものはない。刀夜を見つけたとしても同族殺しを言及する以外に何が出来るだろうか。悶々と悩み続けても答えは出なかった。

 頭を冷やそうとようやくそこで私は考えを切り替えて、シャワー室へと向かった。魔導具で造られたシャワー室は、お湯も出るのでかなり便利だった。千年前であれば、水をくみ上げて湯を沸かすから始まるというのに。
 白い湯気を上げつつ、肌に心地よい温度のお湯は私の体を洗い流す。ぐちゃぐちゃになりかけた感情も少しだけ冷静に、客観的になれた気がした。

(まだまだ情報が足りないもの。やっぱり少し休んだら降魔ノ森のことを調べてみた方が──)

 ふと、そこで思った。
 なぜダリウスは龍神族についてあまり話さなかったのか。そう考えたところで、私は彼が皇族であり、前帝だったということを思い出す。
 彼は知っているのだ。かつての王族や皇族たちが龍神族たちをどのように扱っていたのか。だから、彼自身自分の身分を名乗ることを渋った。私に敵意を持たれないために。
 それとも私を騙して、貶めようと──。

(ダリウスはそんな人じゃない!)

 前帝として戦場にいたダリウスを思い出し、私は頭を振った。見惚れていたとは言いすぎかもしれないが、鎧を身に纏い戦場を闊歩する姿こそ彼の本来の姿なのだろう。心が躍らなかったといえば嘘になる。けれども前帝としての彼は、普段の姿とは異なり別人のようにも思えた。
 近いようで遠い。
 戦闘こそ役に立ったと自負しているが、その後の兵の配置や指示出しなどにおいて私はお荷物というほど役に立たなかった。こんな時、軍師としての知識があった刀夜や、周囲への気配りの上手かった陽兄、温かな笑顔と美味しい食事を用意してくれた母様、存在するだけで心強さとカリスマ性を発揮した父様だったら……。改めて私は戦う以外に人並み以上に出来るものがない。
 これではお飾りじゃないか。とてもではないがダリウスの隣には──。
 そこまで考えて私は再び頭を振った。寸前で叫びそうにもなった。

(気づけばダリウスの事ばかり考えて! それじゃあ、まるで私がダリウスのことが好きで、好きで、気になってしょうがないみたいじゃない!?)

 もはや隠し切れないほどダリウスへの気持ちが育っていた。けれど私はそれを認めたくなくて、自分の気持ちを閉じ込めた。
 吊り橋効果というものがある。今日の彼の姿を見て、美化されて──好きという気持ちだと勘違いしたのかもしれない。
 誤魔化して、濁して、目を逸らす。なんとも愚かだ。
 大きくため息を一つ吐くと、私はシャワー室から出た。

 白のガウンに袖を通して寝室へと直行する。今日は色々とありすぎた。久々の稽古もあったのだ、気疲れもあったのかもしれない。寝室も魔導具によって物が転移したのだろう。
 ふかふかのベッドに体を沈める。白いシーツからは、ほんの少しだけラベンダーの香りが鼻腔をくすぐった。横になった途端、急に疲れが出たのか睡魔が襲う。

(少し休んだら、森を散策しなきゃ……)

 近くにある毛布を手探りで探し、自分にかけたところで意識は途切れた。


 ***


「ずっと、この時を待っていたよ。やっぱり追いかけてきてしまったんだね────結月」

 水の上だった。
 何処までも続く水面。
 漣もない。私が歩くときに波紋が水面を揺らす程度だ。ここは夢ではあるけれど、ただの夢ではない深層世界。
 龍神族なら魂同士が干渉可能となる。

(魂が引っ張られた──?)

 ふと私の前に人影が現れた。
 純白の上衣に白のズボン。聖職者と思わせるその服装に、白銀の長い髪が風で揺れた。整った目鼻立ちに、黒い縁の眼鏡をかけた偉丈夫は嬉しそうに微笑む。

「やあ、結月」

 刀夜が親しげに声をかけてきた。
 私を深層世界に呼んだということは、少なくとも向こうは私の気配に気づいていたからこそ、夢という形で干渉してきたのだ。

「刀夜。貴方は何を考えているの? 最初は皇国イルテアをただ単に滅ぼすのかと思っていた。けれどイルテア国の歴史を聞いて考えが変わったわ。あの日、私たちと下界に降りる時点で、貴方の目的は達成していたのでしょう?」
「僕の目的? 結月は何だと思っているんだい?」

 まるで出来の悪い生徒に質問をするかのような物言いに、私は彼を睨んだ。

「陽兄との約束。人と龍神族が共に暮らす世界を作り上げたんでしょう?」
「うん、そうだよ。けれど僕は君たち兄弟ほど人間に対して寛容ではないし、あのことを許してはいない。今まで人間が君たちに対して何をしてきたのか、どんな扱いをしてきたのか。僕は忘れないし、許しはしない」
「それは──」
「そう、昔の時代の、昔の話だ。今を生きている人たちは関係ない。なんて僕には言えない。人間は人間だ。いつの時代でも、屑はいる」
「だから滅ぼすの?」

 彼は眼鏡の淵を上げると、小さく笑った。

「しないさ。そんなことする必要もなくなった。……ねえ、結月。この世界で魔物は常に溢れ続けているのはなんでだと思う? 今までは数十年、または数百年単位でしか顕現してこなかった魔物が皇国イルテアでは毎年のように、それこそ常に出現するのか。その仕組みについて気づかなかったかい?」
「…………」

 可笑しいとは思っていた。けれど「刀夜が何かした」などとまでは、考えが及んでいなかった。本当は思いついていたのかもしれない。けれど、そう思いたくなかった。
 刀夜が魔物を生み出している。または手引きしている──などとは。

「ああ、僕は魔物を作ってもいないし、出現するように手引きもしていない」
「!?」
「国の中に顕現しそうな魔物がいたら、城砦ガクリュウ付近の降魔ノ森に転送するという転移魔導具しか作らなかったしね。でもそれはいけないことかい? 突如、帝都に現れるよりずっと建設的だろう?」
「それは……」

 私は言葉に詰まる。刀夜は優しく微笑んだ。

「だよね。魔物は実際に別次元からこの世界にやってくる疫病のようなものだ。けれどね厄災なんてものは、この世界にだって存在する。龍神族の魂が穢れ切った時、邪龍になるように、人間だって魂が真っ黒に染まったら──変質する」
「!?」
「元が人間だった魔物か、それとも別の世界から侵略しに来た魔物か。僕たちですら見分けることは出来ない」

 あっけらかんと刀夜は魔物の正体を暴露した。嬉々として語る彼に、私は足に力が入らず、その場に座り込んだ。
 彼は少しずつ近づいてくる。ゆっくりと、しっかりとした足取りで。

「それにしても、僕に少しでも気を許してくれてよかった。『刀夜にも何か事情があるんじゃ?』とか『この世界を刀夜が作ったのなら、それは龍神族としては良いこと』なんて可愛いことを思ってくれたんだろう。だから、僕はここに来られた」
「同胞を殺したのは……なんで」
「言っただろう。君を蔑んだ同胞なんて死んでしまえばいい」
「な──」
「じゃなきゃ、みんな邪龍にすらならない魔物になっていただろうさ」
「…………っ」

 その言い回しだと全て計算通りだったのだろう。私のすぐ傍に歩み寄ると、膝を立てて私と同じ目線になる。

「ねえ、結月。《求婚印》というのを知っているかい?」
「え? つがいとなる《刻龍印》ではなく?」
「ああ、やっぱり知らなかったか。《刻龍印》は龍神族がつがいとなるための証だ。けれどね、その前段階の印が《求婚印》といって、龍神族なら想い人の体にそれを付けることが出来る。ほら、こんな風にね」

 左腕にチクリと痛みが走った。ふと視線を移すと、そこには青い桔梗の花に似た紋様が浮かび上がる。凝縮された魔力が左腕に感じられた。

「なっ!?」
「これが《求婚印》さ。無論、一方的な想いでもこうやって印を残せる。発動条件は相手を愛することだ」
「!?」
「それと少なくとも僕よりも強くなければ、《求婚印》は消えない。他の異性に対しての牽制の役割も持つ。印にそういうフェロモンが発しているんだよ」

 その言葉に私は一瞬、ダリウスの姿が過った。もし今の刀夜がダリウスよりも強ければ、私の傍に寄らないのではないか。
 そう想像して、胸が痛んだ。
 痛くて、痛くて呼吸が出来ないほどに。

「これを外す方法はないの!?」
「ある。でもそれは上書きする《刻龍印》しかないよ」

 どこまでも楽しそうに、刀夜は語った。

「そんなに怖い顔をしないで欲しいな。僕は結月が追いかけて来てくれたことが、すごく嬉しいんだ。今すぐにでも結月が頷いてくれるのなら《刻龍印》だって──」

 そう言いかけて、世界に陰りが生まれたことに気づく。刀夜は忌々し気に遥か彼方の空を見上げた。

「ああ。もうここを嗅ぎつけたのか。……まったく、僕の一部とはいえ強欲なやつだ」
(強欲? 刀夜の一部?)

 私に視線を向けると、パッと華やいだ笑みを浮かべる。

「まあいい。結月、またね」
「刀夜!?」
「なに、迎えに行くのにそう時間はかからないさ。答えはその時に聞くよ」
「待って!」

 私は彼に手を伸ばす。だが、その手は空を掴むだけだった。