一方の義雄は妹の飛躍した閃きに疑問を覚える。
 「念には念をと云うでしょう。やるからには完璧にしたいのよ」
 幸枝はこれまでの海軍との仕事で「担当者」の共通点を見つけていた。
 彼らの多くは自分に声を掛ける前に決まって物陰や遠くの方から自分の姿を上から下まで隈なく見て、最後に目を合わせる。否、左目の泣き黒子(ぼくろ)を見ている。
 それから確信を持つと自分のところまでやって来て声を掛けるのだ。
 彼女はすでに気づいていた。「担当者達」は共通して「背の低い断髪で左目に泣き黒子」という伊坂幸枝の像を知らされているのだと。
 幸枝はそれを逆手に取って、断髪を(かつら)で隠し、泣き黒子を化粧品で隠すことにしたのだ。
 服装は田原衣子を手本に着物を(まと)うことにしたが、舶来品の洋装を主とする幸枝が持つ和服は浴衣と弔問の席のための服、そして晴れ着に限られていた。
この寒い中浴衣を着るにもいかず、また南方での戦争が始まった今に黒装束や晴れ着を着るという不躾なことはとてもできない。そこで彼女は劇団から衣裳(いしょう)を借りることにしたのだ。
 「それから」
 幸枝は人差し指を立てて付け加える。
 「私はお兄さまの恋人として牛込(うしごめ)に行くわ」
 「恋人?」
 妹から思いがけぬ言葉を聞いた兄は驚きで体が跳ね返る。
 「利用しやすいのよ。『私はあの人を愛しているから、欺くようなことは決してしない』と云って忠義を誓うことができるし、この用が済めば別れたと言い訳できるし好都合よ」
 口の端を上げて眼を煌めかせる彼女はもはや狂気に包まれているようにさえ見えた。