ひとつ頷いた義雄は、
 「駅の方へ行こうと思いその通りを歩いたところまでは憶えているが……突然視界が歪んだと思えば気がつくと此処に居たわけさ。通りすがりの人が見つけて運んでくれたらしい」
 と付け加えた。陸経と呼ばれる陸軍経理学校は、陸軍が経理の教育を行う軍学校である。
 (陸軍はお兄さまを陸経に呼んでいたと……。やはりお父様の仰った通り、日頃の激務に加えてあれが影響したのね)
 「もう此処へは何度も来ていたはずだが……とうとう働きすぎたらしいな、僕は」
 へへ、と笑う兄を横に、妹は神妙な面持ちである。
 「こんなことは言いたくないけれど……お兄さま、甘く見られているのではなくて?」
 「一体何を言っているんだ?」
 義雄の口調には若干の苛立ちが現れている。
 幸枝は病室の入口を一瞥し、戸がきっちりと閉められているのを確認して続けた。
 「お兄さま、良い?あの仕事は私たちの方が有利なの。先方の頼みを呑んで、できる限り彼らの要望に従っているのだから……私、このお仕事でお兄さまがこうなるのは嫌なの。だから、提案しましょう」
 「幸枝、そうはいっても……」
 小さく溜息をついた幸枝は小声ながらも語気を強める。
 「強気で行くのよ。お兄さまを態々(わざわざ)牛込まで来させるだなんて、あんまりよ。取引相手に場所の変更を提案するの、今直ぐによ。電話や書面でも良いし……どうせなら陸経までこのまま行っても良いわよ?」
 兄はしばし黙って考えた。
 「……確かに幸枝の云うことも一理あるな。しかし、郵便は宛先を伝えられていないし、電話をするにも何処に掛けるのが良いのか分からない。幸枝が行けばお前も陸軍に顔が割れるだろう、そんな危険なことはさせられないな」