戸を少しだけ開けて身を滑らせるように入った幸枝は、
 「お父様、大変よ」
 と即座に戸を閉めて父の方へと駆け寄った。
 慌てる様子の娘に父は書き物の手を止める。
 「どうしたんだ、慌てて」
 「お兄さまが病院へ運ばれたそうなの」
 「義雄が?」
 父は目を丸くしたが、すぐに考え込むような仕草をして、
 「そういえば義雄のやつ、最近休む間も無かったようだったな。年末の忙しさに、な、例の仕事だ。どうやら毎度麹町や牛込の辺りまで向かっていたようで、会社にも遅くまで残っていたからな」
 と溜息混じりに話す。
 相変わらず浅草通いを続けていた幸枝には到底分からぬことであった。
 しかし、父の話を聴いたからこそ兄が牛込の病院に運ばれたのも頷ける。
 「まあ……それで、お父様。先程その病院からお電話があったのだけれど、私がお伺いして来ようと思うの。何か言付けがあれば私がお兄さまにお伝えするわ」
 「ああ、頼む。私からは特に伝言はないが、病状が分かれば私に電話をしてくれ」
 「ええ……お父様、自動車で行っても……」
 急ぎとはいえ運賃の高騰している自動車を使っても良いか迷った幸枝であったが、父は、
 「お金は後から出してやるから、今すぐ行きなさい」
 「有難う、お父様。行ってまいります」
 父の部屋を飛び出した幸枝は、階下の部長に緊急の用を告げて会社を出て広い通りへ向かう。
 丁度目の前まで来た自動車を呼び止め乗り込む。
 「牛込の高田内科醫院まで。住所は此処よ、急いで頂戴」
 「かしこまりました」
 黒のフォードが出せる限りの速さで橋を駆け、街中を駆けていく。
 たった一人の乗客の殺気に、運転手は世間話をする余裕など到底無かった。