「ただいま!」
 ある冬の日暮(ひぐれ)、幸枝は息を切らして屋敷に駆け込んだ。
 「まあ、お嬢様。今日はお早くお帰りで」
 奥から出てきた紹子は、驚いた顔で令嬢の鞄を受け取る。
 「有難う、お父様かお兄さまはもうお帰りかしら?」
 「はあ、若旦那様はいらっしゃいます」
 「鞄は私の部屋に置いて頂戴」
 「かしこまりました」
 慌てて靴を脱ぎ捨てた幸枝は、(かす)かにラジオの音の聴こえる方へと歩いてゆく。
 「お兄さま」
 「今日はやけに帰りが早いな」
 がらんどうの食堂でラジオを聴いていた義雄も、普段何時(いつ)帰宅するのかはっきりしない妹の姿に目を丸くする。
 「私、浅草までは行ったのよ。だけれど……ラジオを聴かなきゃと思って大急ぎで戻ったの。お父様は?」
 「七時前に帰るそうだよ」
 義雄は卓上に夕刊を広げている。紙面には大々的に開戦についての報道が書かれていた。
 兄の隣に座った幸枝は、記事を覗くようにして読む。
 「……海軍とはもう会ったかい」
 「会ったとも言えるし、会っていないとも言えるわ」
 「……」
 義雄も幸枝も、最初に士官に会ってから数日は経っていた。
 幸枝は記事から目を離して、兄の方を見る。
 「お兄さま、私達は兄妹だけれど、この件についてはお互いに秘密にしましょう」
 「軍部が怖いのか」
 「軍部のためではなく、私達の名誉のためよ」
 妹は兄の目を見てきっぱりと言った。
 「僕らのため?」
 「ええ……これは、私達の名誉のための戦いよ。安全に成し遂げるためにも私はこの件については黙っておくわ」
 新聞の頁を(めく)った幸枝は、再び記事を読み始めた。