午後二時を過ぎたところで、幸枝は自席を離れ部長の元へ向かった。
 「部長、急用が出来たので早退させていただきたいのですが……」
 部長はそれまで拭いていた眼鏡を掛けて幸枝の方を見る。
 「早退か、構わんぞ」
 「はあ、では失礼いたします」
 伊坂工業の社員は幸枝に対しては表向き特別扱いはしていないが、やはり上司の令嬢ということもあり少々大目に見ている点は多くある。
 そして幸枝自身もそのことに気がついている。
 荷物を(まと)めた彼女は颯爽(さっそう)と部屋を出た。
 一つ下の階の製図部を遠巻きに(のぞ)いてみる。
 (お兄さまは居ないわね)
 そして本所(ほんじょ)の街から新橋へ移動する。
 (それにしても……海軍とは分かっていても、名前も顔も知らないんじゃあどうしようもないわね。新橋の何処なのかも指定されていないようだし……)
 新橋に到着した幸枝は、駅構内で相手を待つことにした。
 駅の時計は指定された時間の三分前を指している。
 構内には外套に身を包み足早に歩いていく紳士の姿や、大きな風呂敷を持った女性の姿など様々な人の姿がある。
 人間観察をしていた彼女の前に突然、人影が現れる。
 小柄な幸枝は細身の男が目の前に立ってもすっぽりとその影に隠れてしまい、視界を(さえぎ)られた。
 (この方が担当、なのかしら……?)
 立襟の紺の上衣には(ボタン)が五つ並んでおり、視線を上へと上げると(いかり)(しょう)が見える。
 (……!)
 それとほぼ同時に、幸枝は分厚い丸眼鏡の奥で光る鋭い視線に圧倒された。
 二人は十数秒睨み合ったが、少し目線が逸れたと思われた途端、男は駅の外へ歩き出した。
 幸枝は立ち尽くしていたが、その場を離れたはずの相手がこちらを振り返ったのを見て後を追う。
 (付いて来い、ということで正解よね……?)