「まあ……」
 幸枝は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、くすっと笑った。
 「何が可笑(おか)しいんだ」
 「いえ、可笑しいのではなくて、伊坂工業がそれだけ『顧客』から信頼されているということが嬉しいのです」
 本当は彼女は心の内で、陸軍と海軍の確執のようなものを想像していた。
 それだけに、それぞれが個別に通達してきたという状況が面白いのである。
 「……それで、私はどちらの担当で?」
 父はポケットから四つ折りにされた紙を娘に手渡した。
 開いた紙には、
 『本日午後三時新橋(えき)へ来られたし 帝國海軍』
 とだけ書かれている。
 「先方の担当者は何方(どなた)でしょうか」
 「さあ……それが私も知らんのだよ」
 「はあ」
 「ともかく、詳しいことは今日会う士官に聞いてくれとしか」
 「……分かりました」
 父は少々申し訳ないような顔をしている。
 「お父様?」
 「すまないな、危険な仕事をお前達に任せてしまって」
 幸枝は沈んだ様子の父を他所に笑顔を見せる。
 「このお仕事をお引き受けになったのはお父様の御判断でしょう。私は伊坂工業の人間、そしてお父様の娘ですから……お父様に代わって成し遂げます」
 「そうか、それは頼もしいな……今日の午後、宜しく頼んだぞ」
 「ええ。では仕事があるので戻ります」
 幸枝は軍からの紙をスカートのポケットにしまい、作業場に戻った。
 昼休憩の間の部屋には人は少なく、がらんとしている。
 (今日の昼食は一人ね)
 机を片付けた幸枝は、今朝女中から渡された弁当箱を広げ、緑茶を用意して昼食を摂った。