三羽雀

 「この曲はシューマンのアダージョとアレグロというんですがね、僕のお気に入りなんですよ。どうしても美しい貴女に聴いていただきたかった」
 「はあ、それはどうも」
 春子は曲を聞いたので早く家に帰りたいという一心で家路を急ぐような気持ちになったが、勝俊の話がそれを許さない。
 「春子さんには好きな曲はありますか。ぜひ僕に少しだけでも吹かせてください」
 期待に溢れる表情の勝俊を前にして、春子は、
 (ああ……これは断っては失礼になる、早く家に帰りたいけれど……)
 と考えていた。そして、何か知っている曲を言わなければいけないと記憶にある音楽を当たってみる。
 「では、ベートーベンの、ムーンライトソナタをお願いします」
 特に好きな曲でもないのだが、おそらく小説か映画の中で耳にしたのであろう、春子の中で思い付いた曲名はこれだけであった。
 勝俊はホルンを持ち直した。春子はやはり真剣には聴いておらず、もはやその深みのありどこか鬱々とした曲調に清士への想いを重ねている。
 「これは音を正確に出すことさえ難しい楽器なのですが、どうでしたか、僕のホルンは」
 勝俊はまたクロスを広げ、ホルンを拭いている。春子は暫く黙っていたが、
 「綺麗な音色でした」
 とだけ言って、地面に置いていた鞄を持った。
 「もう(うち)に戻る時間ですので、失礼します」
 丁度一曲終わったところで帰ろうとした春子だが、勝俊に呼び留められ、その歩みを止めた。
 「春子さん、もう日も傾いていますから、今日は僕が近くまでお送りしましょう」