「行って参ります」
 「お継母さんと昭二をよろしくね」
 幸枝は義雄と共に毎朝出社する。
 本所(ほんじょ)にある本社へはバスで向かう。その道のりで二人はさまざまなことを話すが、寒空の下、今日はどうにも朗らかな気分にはなれない。
 「……どうなのかしらね」
 「どうって何が」
 幸枝は人気(ひとけ)がないか、周囲を確かめる。
 「お父様が仰っていたことよ。戦争が有ればうちは当然儲けが出るし、仕事が回る」
 「それがどうした」
 「今回はどうにも変な感じがするのよ」
 「変な感じ?」
 角を曲がって大通りに出る。
 「ええ……注意深く街を見ていれば分かるわ。人々は収まることを知らない何かに駆り立てられ、煽られている」
 「……」
 バス停に着いた二人は乗客の列に並んだ。
 「ただそんな気がしているだけよ、気の所為(せい)だわ」
 バスの乗客は皆どこか活き活きとしているように見えるが、その中で二人だけがどこか遠くを見つめている。
 揺れる車両の外で流れる街は、冬の寒さが感じられないほどに活気付いていた。
 「お早うございます」
 会社に着いた幸枝と義雄はそれぞれの部局のある階に向かう。
 「伊坂さん、お早う」
 「お早う、幸枝ちゃん」
 社員は皆幸枝が伊坂家の令嬢であることは知っているが、一般の社員と変わらず接してほしいという彼女の意向を()んでいる。
 朝礼を終えると、忙しい一日の始まりである。
 街を見渡す窓のある部屋には大机が一つ。そこに十数台のタイプライターが置かれ、部屋中に絶え間なく(けん)を叩く音が響く。