浅草の街を早足で抜けた幸枝は伊坂家の屋敷の裏口へ回る。
 足音を忍ばせながら勝手口を通り、灯りの消えた部屋を横目に廊下を抜き足で歩いて階段を上がる。
 そして、自室の机上に用意しておいた風呂敷と黒革の鞄を持ち替えると、階段を降りて家を出る。
 秋の終わりの夜となると、風の冷たさも身に応える。
 少し歩いて幸枝が着いた先は銭湯であった。
 「どうも」
 「いらっしゃい」
 番頭に一声掛けた彼女は、女湯の暖簾を捲りその先へ進む。
 髪と身体を洗い浴槽に浸かった幸枝は、思わずふうっとため息をついた。
 ここは彼女が唯一心を落ち着けられる場所である。
 (……今日も不思議な一日だったわ……それにしても、成田清士は只者(ただもの)じゃあないわね)
 幸枝はゆらゆらと揺れる水面を眺める。
 (少し彼を試しすぎたかしら……昨日といえ今日といえ、困惑させたかもしれないわ。それにしても、ここのお湯は日に日に(ぬる)くなっているような気がする……)
 幸枝は肩から顎下まで浸かろうと身体を押し下げた。
 (戦時下の経営も楽ではないのね)
 数年前から石炭の価格が高騰し、朝風呂の廃止までもを迫られた東京の街からは日に日に風呂屋が消えていき、ついには代用燃料へ切り替える店や、それさえも手に入らず廃業にする店が増えてきている。
 一つ深呼吸をした幸枝は浴場を出て浴衣に着替え、温まった身体が冷える前に屋敷の自室へ戻りベッドに入る。
 (明日はどんな一日になるかしら)
 掛け布団を肩まで掛けた少女は、ゆっくりと目を閉じ新たな陽が昇るのを待っている。