「春子、もう車が来ているから降りて来なさい」
 「……」
 よそゆきに着替えて薄く化粧をした春子は、部屋の扉にもたれかかるようにして立っていた。
 父の声と家の前に停車した車の警音を背に大きなため息を吐く。
 (もう、どうしてなんて言っていられないのね)
 両親と一緒に乗った車の向かう先は神藤家の邸宅である。
 春子が車窓から覗く景色は、段々と都会の景色から住宅地へと変化する。
 「こちらでよろしいでしょうか」
 「ああ、どうも」
 車を降りた一行の目の前には既に神藤家の三人が並んでいる。
 (またこの家に来ることになるなんて……)
 「ようこそお待ちしておりました」
 父と母たちは我が子らを他所(よそ)に玄関へと進んでいく。
 春子はまだ神藤家の邸宅に足を踏み入れるのを躊躇(ためら)い、門を(くぐ)ったところで立ち止まっている。
 「春子さん、少し庭の方へ行きませんか」
 目の前に立った勝俊は、春子を庭の方に案内しようとする。
 「ええ……」
 気が乗らない春子であったが、勝俊の後をついて庭の方へ向かう。
 彼のピアノを聴いた日に見たあの青々とした庭だ。
 「二人でお会いするのは、神藤さんがうちにいらっしゃって以来ね」
 「ああ、そうだね……その後どうだい」
 「特に何も……」
 勝俊は俯く春子を横目に、庭から硝子扉を一枚隔てた居間に目をやる。
 両家の両親が懇談しているのを見て、春子に庭の奥の方を歩かせた。
 「春子さん、こっち側にいて」
 突然両肩を掴まれた春子の身体は、瞬時に(すく)んだ。
 「やはり君の答えは『ノー』かな」
 庭の木々を眺めながら歩く男女の様子は、硝子越しには二人の展望について談笑しているようにも見える。
 ただ、春子の暗い表情は大人達には見えていない。