春子の心の中には、やはり清士の姿があった。
 『僕は誰とも結婚しない。春子ちゃんには悪いが、誰一人として嫁に取るつもりはないから──』
 すでに結婚を断られたところで清士の名前を出すことは、春子にはできなかった。
 「……神藤さんはあのお家で唯一の跡取になる人のはずよ、私が結婚しなくたって……」
 この一言で、父は娘が自身と結婚することで融通を効かせようとしている人がいることを知っているのだと悟った。
 「実は、今度の召集ではともかく人手を集めようということで必死なんだ、だから……」
 「神藤さんは音楽学校に通っていらっしゃって、それでも大学の伝手で軍楽隊を志望すると仰っていました。そのような方と私が結婚する必要などありますか?」
 父の話を遮るように口を開いた春子の目は懐疑に満ちている。
 「他に……他にいらっしゃるんじゃあないですか?私が結婚すべき方は」
 「春子、静かになさい」
 春子を制したのは母である。
 「これは神藤さんの方が所望しているのよ」
 母の目を見た春子は、全てを悟って諦めることにした。
 (私に拒否権は無いのね)
 「一度神藤さんのところとうちとで顔合わせをするから、準備をしておきなさい。今週末よ」
 「はい」
 春子は両親に対して言いたいことが喉の奥から次々に溢れてきていたが、それを飲み込むように返事をした。
 (もう清士兄さんは駄目なんだわ……)
 自分が清士を助けることができなかったと思った春子は、駆け上がった階段の隅で泣いていた。