「成田さん、こんばんは」
 そう言って淑やかに礼をする。立ち居振る舞いは頭の先から手先足先までもがしなやかである。椅子に座るとしゃんとした背中で、口に手を当てて微笑んでいる。全てが上品で、まさに令嬢と呼ぶに等しいような人物である。
 しかし、そんな彼女は家に帰ると何でも女中に頼み、自分は全く動かず、座り方もだらしのない少女になるのだった。
 「お行儀が悪いですよ」
 母が(たしな)めても悪びれた様子すらない。
 「成田さんとのお食事の時だけは利口なのに……いつもそうしていればよいものを、松原家の娘として常に相応(ふさわ)しい振る舞いを心がけなさいよ」
 娘は何も言わなかったが、頬を赤らめ、放り出していた足を揃えて座り直した。春子の頬が赤くなったのは、素行(そこう)を指摘されたためではない。成田という名字を聞いたからである。事実、春子は成田家の長男である清士に一目惚れして密かに慕っているのであった。
 春子自身、その恋心に目覚めたのは女学校二年、十四歳の夏のことである。それまでは成田家の次男である清義と合わせて兄のような存在だと感じていた清士が、大学予科へ進学し寮生となり縁遠くなったとき、寂しさとは違う、胸がキュウと締め付けられるような感情を抱いたのである。
 時々、清士が帰ってきたという話を耳にしてはどうにかして会うことはできないかと思案したが、一人で成田家に行くのはどうも勇気が出ず会うことも、連絡を取ることもできないでいた。このことは家族にも、友人にも話していない。