「神藤さん……いらっしゃい」
 勝俊は春子の声を聴いてスッと立ち上がった。
 「今日はどういった御用で?」
 春子が勝俊と向かい合わせに座る。
 「いやあ、特にこれといった用事ではないのだけれどね、その……君の気を悪くしたのではないか、(ある)いは困らせてしまったのではないかと思って」
 春子は何も言わず、ただ勝俊からは目を逸らすように辺りを見ていた。
 「すまなかった、僕の気持だけが先走っていたようだ」
 「いいえ……直ぐに返事も留保も申し上げなかった私の方こそ御無礼を」
 静かな声で話す春子は、勝俊とどう接するべきなのか全く分からない。
 「……それで、神藤さんは未だ私と……」
 春子が話を続けようとしたとき、ドアをノックする音が聞こえた。
 「どうぞ」
 部屋に入ってきたのは、春子の母であった。
 「お母様……」
 春子と勝俊は即座にソファーから腰を上げる。
 藤色の着物を着た母は、部屋の手前にある椅子に腰掛けた。
 「春子も、勝俊くんもお座んなさい」
 「お母様、神藤さんをご存知で?」
 驚く春子に対して、母は落ち着いた様子で続ける。
 「ええ勿論よ。彼は神藤製糸さんの御子息だもの」
 「えっ」
 春子は驚きのあまり声を出し、ゆっくりと勝俊の方に目を向けた。
 (神藤製糸って……洋裁の授業で使ったあの糸の会社かしら)
 「春子さんにはまだ言っていなかったが……実はそうなんだ」
 そう言った勝俊は母の方に向き直って続ける。
 「いつも父がお世話になっております」
 松原家と神藤家は例によって主人同士が顔見知りであった。母も勝俊のことは聞き伝手に知っているだけであったが、ゆきから客人の名前を聞いて応接間に入ったのであった。