万年筆を走らせる父であったが、突然担ぎ込まれて診察したのが大企業の人間というのは、これまでの医者人生で初めてであった。
 一方の娘は受付に戻り受話器を取る。
 名刺に書いてある番号を見ながら電話を掛けると、
 「伊坂工業でございます」
 と若い女の声が聞こえた。
 「此方は高田内科醫院と申しますが、先ほど伊坂義雄様という方を緊急で診察いたしましたところ、御社の名刺が見つかりましたのでご連絡差し上げました」
 相手の声に戸惑いが現れる。
 「伊坂義雄は弊社の社員ですが……緊急?診察とは」
 「容体は安定しておりますが、その詳しいご説明をと思いまして……ご家族様にご来院いただけますでしょうか」
 本社は本所にあるらしく、相手も牛込にある診療所のことは知らないと見えて住所を訊かれた。
 電話を終えた志津は受付から調剤室へ移動し、父から指示された通りに調剤を始めた。
 彼女は(もっぱ)ら受付係のように見えるが、実際は薬剤師が本業である。
 本来受付係は事務員の仕事だが、経営は厳しくなり看護婦をこれ以上少なくするわけにもいかず、志津が受付も受け持つ形でこの診療所はなんとか保っている。
 処方薬を片手に男性の元へ様子を見に行くと、その人は目を開けて天井を眺める格好で仰向けになっていた。
 「お父さんはもう診られてしまったの」
 「はあ」
 志津はしんとした病室の壁際に座っている看護婦に小声で尋ね、茫然(ぼうぜん)と空を見つめる男性のベッドの横に腰を下ろす。
 「……」
 男性の目線が志津の方に向けられ、上体を起こそうとする。
 「横になっていらしたほうが……」