「彼は帝大の法科生で、二年ほど前からよく顔を合わせる仲でした……でも私、その晩、彼に酷いことを言ってしまったんです。軍人の貴方の前でこんなお話をするのは卑怯かもしれませんが……私も戦況が芳しくないことも、長津さんのような軍の方々が総力を尽くして臨んで下すっていることも分かっています……だから、彼のように弱音を吐く人がどうにも嫌になってしまって……出征が決まったのなら其処迄だと言ったんです。それが私の間違いでした……もっと、他に言えたことが有ったのではないかと思いました。それで今日、一言でも何か励ましになる言葉を掛けられたら……と思って来たんです」
幸枝はがくりと項垂(うなだ)れた。
 「無謀だったわ。憲兵さんに無理強いして中に入ろうとしたのであのようなことに……これも所詮は私の一方的な罪滅ぼしなんです、罪悪感を感じないための賭けだったんです」
 長津は幸枝の細く小さな背中を(さす)る。
 「その学生を連れて来ようか」
 幸枝は首を横に振った。雨に濡れた髪はどこか重苦しく、異様に黒髪の光がぎらぎらとしている。
 「もう良いんです……彼を混乱させてはいけませんし、私も彼に何を言って良いのか、分からなくなってしまいそうなので。ただ……」
 少女の濡れた瞳が青年将校の目に映る。
 「もし海軍に帝大の成田清士さんというかたが入団したら、どうかよろしくお願いします」
 長津には頷くことが出来なかった。
 「その名前は覚えておくよ」
 二人は言葉を交わすことなく、横並びに座ってそれぞれ俯いている。
 競技場からは首相の訓辞と思しき話と万歳三唱の声が聴こえた。