どういうことかとんでもないお洒落をしたくなったのだ。この頃、お洒落などはすっかり無縁になった。しかし、この日だけはかつて着ていた大好きな洋服で出向きたかった。まるで勝負にでも出るかのような気分を呼び起こすために。
 (雨……)
 前庭に出てから、傘を持っていないことに気がついた。
 (いいわ、傘なんて……兎に角急いで行かなくちゃ)
 大通りに出た幸枝はタクシーを捕まえて、
 「外苑競技場、急いで頂戴」
 とだけ伝え、暫く雨粒と共に流れる景色を眺めていた。
 「此処で結構よ」
 競技場の裏に着いたところで、幸枝は代金を出し自動車を飛び降りる。分列行進曲の鳴り響く場内に吸い込まれそうな調子で、彼女はゆっくりと歩みを進めた。
 遠くの方に小銃を担いだ大勢の学生が見える、あの中に彼も居る。いや、彼だけでなく名前くらいは知る程度の人が数え切れないほどに居る。
 雨は家を出た時よりは少しだけ弱まり、細かい雨粒がぽつりぽつりと降っている。幸枝は考える余地も無く競技場の中へ向かおうとした。
 「君、此処は立入を禁止している」
 目前にぬっと現れたのは二人の憲兵である。
 「通して頂戴」
 立ちはだかる木賊(とくさ)色の壁は断じて動じない。
 二人の間をすり抜けようとした幸枝であったが、簡単に押し戻されてしまう。
 「此処に入るのは学生だけだ。(めか)し込んだ女の出る幕は無いぞ」
 右側に立つ憲兵は気味の悪い笑みを浮かべた。
 「……私は伊坂工業の者よ、通しなさい」
 この名前を出せば通れるかと思った幸枝であったが、憲兵は、
 「栗鼠(りす)が騒いでら」
 と少女を嘲笑う。