「ねえ春子ちゃん、お相手のかたは、何か理由が有って結婚を断ったんじゃないかしら」
 「……え?」
 幸枝はひとまず春子を説得し泣き止ませることにした。
 「誰とも結婚しないと仰ったんでしょう?」
 「ええ……」
 諭すような口ぶりで、幸枝は続ける。
 「ある軍人さんの話よ。その人は、出征前に奥さんから手渡された御手紙を()ぎ払ってこう言ったの。生きて帰ることの無い自分にそんなものを渡されてたまるか、とね」
 そんな軍人がいたという証拠はどこにもない。
 「……どう言うこと?」
 春子は困惑した様子である。
 「要は、そのかたは戦争に征くことをまだ受け入れられていないのよ。戸惑っていると言っても良いわね……本人にとっては生きるか死ぬか分からない状況に立たされようとしてるのに、結婚となれば重荷になってしまったのかも……私はそう思うわ」
 春子は数十秒の間呆然としていたようであったが、すっくと立ち上がり、
 「私……もう帰るわ。少しだけでも話を聞いてくれて有難う」
 と言って部屋を飛び出ていった。
 外は薄暗く、空には幾つかの星が浮かんでいた。
 この頃の妙な来客は春子だけではなかった。彼女が伊坂家の邸宅を訪ねた三日後の晩、またしても玄関で声が聞こえたのである。
 父も兄も夜遅くまで仕事に出ているこの頃、幸枝は広い食堂の中で女中の用意した食事を摂っている。
 この日もやはり、玄関の方から、
 「ごめんください」
 と男の声が聞こえるのだが、屋敷の奥に居る女中達の足音は聞こえず、幸枝は箸を置いて食堂を出た。