「暫くの間そこを貸そう、山梨への切符も手配しておく。この仕事に関しては俺も打てる手は打つから心配は要らない」
 長津は海経で幸枝に疎開を打診した時から、そのつもりであった。
 想像はしたくないが、この街も本当に焼かれるかもしれない。工場の集まる本所なんかは格好の標的である。主計中佐には間違いを起こすなと言われたが、これは「間違い」などとは異なる、自らと仕事相手を守るための「方策」だ。伊坂幸枝という人間を失うわけにはいかないのだ。
 「御迷惑じゃありません?」
 幸枝はそれだけ返す。いくら一年共に仕事をした間柄であろうと、身内の事情に片足を突っ込むのは気が引けるものである。
 「良いんだ。俺が良いと言っているんだから、遠慮せず使ってくれ」
 「そんなにしてくださるのは有り難いですけれど……」
 長津には幸枝の遠慮がちな態度が理解できなかった。
 「別荘には門番や留守居が居る。長いこと行ってはいないが家は綺麗にしてあるだろうし、安全だ。何より、向こうのほうが此方よりは空襲を受けないだろう。君は一体仕事を優先してこの場で死んだらどうするつもりだ、君は有名企業の令嬢だろう。折角疎開先が見つかったのだから受け入れて疎開したらどうなんだ」
 「どうしてそんなに良くしてくださるんです?……やっぱり怖いわ、私たちお取引をしているだけなのに!」
 幸枝はここまでしてもらう義理はないと言いたい気持ちを抑えて長津のほうを見る。
 冗談めかすような彼女の声に、長津は一瞬、露骨にたじろぐような態度を見せた。
 「それは」
 「不思議だわ。長津さんは私の為を思って提案してくだすっているんでしょうけれど、私たち親戚でもなんでもないんですもの」