「いや、本当に貰ってくれて構わないんだ。そのつもりでお渡ししましたから。返して欲しければ返せと言います」
 「そうです?こんなに真新しいのに……本当に頂いてよろしいんですか?」
 彼女の手にある手拭いは桜の模様が描かれた新物である。
 「日頃協力していただいている礼だとでも思ってください」
 「では……」
 幸枝はそれ以上何も言わず、ゆっくりと鞄の中に手拭いをしまった
 二人は気がつくと庭園を正面に続く銀杏並木を通り過ぎ「仕事場所」に着いていた。
 木陰には風に吹かれる木の葉の陰で太陽の光が地面を揺蕩(たゆた)っている。
 「この間の話を聴きましょうか」
 庭園の中の長椅子に座り「仕事」を終えた長津は悠然とした(たたず)まいで幸枝のほうを見る。
 軍帽を被っていると見えないが長津は今日もかっちりと固めたモードな髪型で、軍服を着てさえいなければ実業家かインテリにしか見えない。
 「海経でお話を伺ってから考えたんです、父にも相談しました……それで、長津さんを頼らせていただこうかと……」
 この頃には既に官庁の疎開が決まっていたり、防空対策が本格的になっていたりしていた。長津は幸枝の賢明な考えに感心した一方、顔には出さないが、彼女から頼られたことを嬉しく思っている。
 「代表は何と?」
 幸枝は父と話した内容を伝えた。
 「でも、ひとつ問題があるんです……私、行く宛がないんです」
 本音は「だから疎開はしない」と言いたい幸枝であったが、父の優しい笑みの後ろに隠れた心配の表情が頭に焼き付いて離れない。
 「山梨の別荘の話を覚えているかい」
 「……はあ」
 料亭、芸者、ワイン──幸枝は、ある冬の日を想起した。