白露(はくろ)の頃にはいよいよ街も戦時色が強くなってきて、落ち落ち過ごしていられなくはなった。両軍からの増産に応えた伊坂工業では生産の多くが航空機の部品に切り替わり、工場の稼働時間も伸びている。度重なる工場の拡大と工員の増加で、事務局の仕事も山積みとなっているのであった。
 そんな事情とは関係なく、軍との仕事もこれまで通り継続している。
 (今度もまた妙な場所ね……あの主計中佐は橋が好きなのかしら)
 大きな溜息を吐いて本社を出た幸枝は、昼の眩しい日差しを浴びながら港の方角へと向かった。行先は勝鬨橋(かちどきばし)である。
 幸枝はこの日、初めてこの「仕事」に遅れそうになっていた。
 厳しい残暑に汗を垂らしながら向かっていたが、思ったよりも到着に時間が掛かっていたらしい。
 (遅れるわけにはいかないわ……!)
 橋の前にいつも通り定刻の五分前に到着し取引相手を待っているであろう様子の長津が見えてから、幸枝は形振(なりふ)り構わず走った。
 長津は幸枝が月島のほうから来るだろうと見込んで彼女を待っていたが、予想通り幸枝はそちらから来た。
 あと少し──。
 しかし、全速力で動いていた足が突如として動かなくなり、幸枝はその場で前のめりになって転んだ。
 (ねじ)れたような、脚の裏側がピンと伸びた感覚がして、腕の辺りには擦ったような痛みがする。
 「うう……」
 (何をしているのよ私は、恥ずかしい!)
 体の痛みよりも、周囲からの視線の痛さが堪える。
 ひりひりとする腕を動かしてどうにか上半身を起こした幸枝の前には、いつの間にやって来たのか、海軍士官の姿があった。