午後五時の事務室は、終業間近で帰路を急ぐ女子社員達のいそいそとした足取りで溢れる。
 一時間程前に帰社した幸枝は、終業までの時間で資料の校正作業を進めていた。
 事務室の電気を消した幸枝は鍵を閉めて、
 「皆さん、今日は先にお戻りになって。私が鍵を返しておきます」
 と他の社員を先に行かせた後に守衛室へと向かった。
 挨拶を交わして階下の守衛室の戸を叩いた幸枝は、
 「お疲れ様です」
 とだけ言って鍵を置くと、仕事の終わった開放感か、或いはこれから起こる出来事の高揚感か、またはその二つが混ざり合ったような気分になる。
 既に係の帰宅した受付の真横にある応接間の扉を静かに開けた。
 幸枝が部屋に入ったのとほぼ同時に、白く塗られた木の扉が音を立てて閉まる。
 真夏の夕べの生温い風が吹き返す玄関には誰一人として人の姿は見えず、反響する微かな話し声だけが聴こえている。
 二人が会社の外に出た頃には、空に幾つかの星が浮かんでいた。
 応接間の中で清士が放った言葉は、
 「僕が悪かった」
 その一言だけである。幸枝にはそれに返事をする一瞬の猶予さえ与えられなかった。
 「君と一緒に居られないと、僕にとって君がどんなに大切か忘れてしまう」
 乱れた髪を直しながら歩く幸枝は、ただ何も言わず前へと歩みを進めている。
 「そうだ、これから何処へ行こうか」
 思い出したようにアッと声を出した清士は幸枝の方を向いたが、彼女は目もくれず、
 「もう夜になろうかという頃なのに……今更何処へ行くのよ」
 と溜息を吐く。
 「浅草は」
 「嫌よ」
 幸枝は突っぱねるように拒否した。