幸枝は本社のビルを背に歩き出し、清士もそれに遅れまいと着いて行く。
 「このあいだはこの世の終わりかという程に沈んでいたのに」
 「よしてくれよ」
 幸枝はくすっと笑う。
 「冗談よ」
 清士は茶目っ気に満ちた幸枝の表情に満足した様子で、
 「もう家に帰るのかい」
 と続ける。
 幸枝は、間髪入れず、
 「そうよ、他に行くところは無いわ」
 とローファーの足音をリズム良く響かせながらバスの停留所へ向かう。
 「折角君に会いに来たのに」
 清士もバスを待つ仕事帰りのサラリーマン達の間に並んだ。
 「悪いわね、私も忙しいの」
 幸枝は成田家の邸宅が牛込にあることも、また清士の通う帝大が本郷にあることも知っている。伊坂工業までは決して近いとはいえぬ何処かからこの人がやってきていることは承知なのである。
 「少しで良いから、何処か行こう。歩くだけでも」
 「あの橋を渡り終える迄なら良いわよ」
 幸枝の視線の先にあるのは言問橋である。
 清士は橋の向こう側を見渡して、
 「よし行こう」
 と歩き出した。
 「久しぶりに浅草にでも行こうか」
 学生の口調には溢れ出すような楽しさが含まれている。
 一方の幸枝は乗り気ではないようで、
 「今時、浅草も前のようにそう面白くはないわよ」
 と一蹴した。
 「そうなのかい?」
 不思議そうな問いかけをした清士は、橋を目前にして公園のほうへと駆ける。
 「ちょっと、橋を渡る迄と言ったじゃないの!」
 幸枝も橋を過ぎ去って公園の中へと入っていく。
 春に花をつけた桜の木はとうに青々とした葉が茂り、ざわざわと音を立てている。