「あら、拝借したままでした」
 と振り返った表情はとろとろとしている。
 上衣を受け取った長津は、
 「玄関は彼方(あちら)でしょう」
 と敷石のある前庭を指差した。
 しかし、幸枝は反対側に手を伸ばしている。
 「裏から入るんです、女中が心配しますから……」
 そして再びゆるりと動き出した。
 長津は少しずつ暗がりの中へ進む少女の様子が歯痒くなって、
 「裏迄お送りします」
 と幸枝の細い肩を包み込むように支える。幸枝は何も言わず歩いていき、長津もそれに付いて行くのみである。ものの数十秒で、幸枝は、
 「今日はおご馳走様でした。ごめんください」
 とひとつ会釈をし、裏口から邸宅へと入っていった。
 扉の閉まるのを見届けた長津は早足ながらもそっとした歩みで邸宅を出て車の元へ向かう。
 邸宅の前で羽織った上衣は、上等の菓子のような甘い香りを纏っていた。