「ええ、弊社も需要に追いつくのに齷齪(あくせく)した時期もありましたが……漸く安定して操業できるようになりました」
 紳士は笑顔である。
 「そうか、そうか。これからも工業の需要は上がるだろうな。あれだ、元手を充分確保出来れば、航空機なんかに手出ししても宜しいのではないか……そういえば、今日はこの辺りに用事かね」
 はにかんだ幸枝は、
 「ええ、此処でお会いする方が居りまして」
 と答えた。一方の専務も、
 「ああ、そうだったか。では、私はもう行くよ」
 とステッキを足先に出して山高を軽く上げた。
 「はあ、ごめんください」
 幸枝が深々とお辞儀をし、専務が去っていったところに、
 「どうも」
 と現れたのは、長津であった。
 腕時計を見た幸枝は、
 「あら、失礼いたしました。もう時間でしたね」
 と小さくお辞儀をする。若草に花々の咲き始める春先のような風が香った。
 「いや、こればかりは主計中佐が妙な場所を指定したばかりに」
 軍帽を被り直した長津は、気張っているのか不満を持っているのか、恐らくそのどちらかの表情で、
 「私はこの辺りは貴女を知る人物が多いだろうと具申したのですが、此処と決めたからにはそのとおりにすると言って聞かなかったものですから」
 スーツの男性で溢れるこの街では、軍服姿は些か人目を引いているように見える。
 長津は東株の建物の影に入った一瞬の間に封筒を取り出し、幸枝に手渡した。
 「今後は更に忙しくなりますよ」
 「はあ」
 鞄に封筒を仕舞った幸枝は、長津のしゃっと伸びた背筋と首筋に目を遣る。
 「やはり上官は御社への注文を増やしたいそうで」