小正月もとうに過ぎた二月。底冷えの朝であったにもかかわらずひと足早く春の陽気の訪れたような午後、黄昏を迎えようとする帝都には未だ長い冬眠から目覚めた動物達の動き出す森のような活気が漂っていた。
 市電に乗り向かう先は「東株」──帝国随一の株式取引所である。
 幸枝は車窓からの景色に目を光らせていた。
 連合国を筆頭する二大国家の国旗を踏み(にじ)り、「いざ」と言わんばかりに駆けてゆく陸軍軍人のポスターがそこかしこに貼り出されている。
 ほんの少しの間車両に揺られ市電を降りた幸枝は、ポケットから出した紙切れを確認した。
 『鎧橋(よろいばし)兜町(かぶとちょう)側』
 数分前に市電に乗って通った橋である。
 牛乳瓶のような丸眼鏡の主計中佐あるいは冷静沈着で引き締まった体格の海軍中尉は、毎度、座標で指定しそうなほどに絶妙な地点を伝達してくる。
 東株の大きなドームを背に、幸枝は鎧橋の縁で午後の仕事を迎えることにした。
 「仕事」が始まるまであと十分。時計を眺めていると、見知らぬ紳士が現れた。
 「もしもし、伊坂工業のお嬢様ではないか」
 茶色のスーツにステッキのその紳士は、とある製糸業を営む大企業の専務であった。
 「まあ、こちらで専務にお目に掛かるとは……近頃はお忙しいでしょう」
 製糸会社の専務は顎に手を当てて、やや深刻な顔を見せた。
 「やっぱり衣料が配給になったんで、此処一年の売上はそう高くないがね。何とか保っては居るよ。忙しいと云えば御社は最近かなり伸びとるらしいじゃないか」