「いいや、後でよろしく伝えておいてくれよ」
 「そうかい。では私たちは此処で失礼するよ。伊坂さんも、今度ゆっくり食事しながらでも話しましょう」
 成田夫妻は、瞬く間に人混みの中へ消えていった。
 その後も挨拶回りもとい芸術鑑賞は続き、幸枝も精神的に疲弊を感じたのであった。
 流れるように人の動く展示室はどこか熱気を帯びていながらも乾燥していて、まるで中東の街中のような空気である。
 「少し外に出てくるわ」
 兄にそう告げて出てきた美術館の大広間には、思わず体を震わせるような冷たい風が吹き抜けている。
 幸枝は紅の小花柄の頭巾を被り、コートの下に着ている女中の編んだ緑色のカーディガンに手を埋めた。
 (もう挨拶続きも戦争画の鑑賞も御免だわ、早く帰りたい)
 幸枝には嬉々として軍人や戦地を題材にした芸術を観に来る市民の気が知れなかった。
 第一、今日この場所に来たのも一家の体裁のためなのである。
 弟はともかく、父と兄はこの展覧会をどう思っているのであろうか。
 人々はさぞ楽しそうに展示室へ入ってゆく。
 彼女は写実主義を批判しているのではない。作為的な人間の死の現場を芸術に昇華させ、またその芸術に取り込まれる世間に疑問を呈しているのである。
 「伊坂さん」
 喧騒の中で自らを呼ぶ声の聞こえたほうから瞬間的に身体を引いたが、そこに居たのは案外不愉快な種類の人間ではなかった。
 「成田さん、お久しぶりね」
 身を潜めるように被っていた頭巾を取った幸枝は、
 「中で旦那様と奥様にお目にかかったわよ」
 とぞろぞろと人の入っていく展示室のほうを見た。