「おい、こっちに来てくれ」
 父に呼ばれたかと思うと、弟を引き連れた兄は、
 「陸軍の松原少将だよ」
 と耳打ちした。
 「御宅には本当に世話になってしまって」
 「いやいや、お世話になっているのは弊社のほうですよ。それより、今日は御夫婦揃って水入らずですか、いやはや、お二人が並んで立っていらっしゃるだけで絵画のようですな」
 幸枝は何も考えずただ口に手を当てて笑っていたが、この少将はあの取引の件を知っているのかと人に見えないところで探りを入れるような気持になっていた。
 渋色の打掛を纏いしゃんと背中の伸びた夫人によれば、子供は二人有るけれども、息子は軍学校、娘は銀幕の俳優にしか関心を示さないとかでここには姿を現さなかったらしい。
 年長にも関わらず、思ってもいないことを息つく暇もなく笑いながら口にしている父を挟んだ向こう側から、また別の夫婦がこちらへやってきた。
 地味な色のスーツと小豆色の着物の夫妻は、その顔を知る者でなければ一般市民の片端にしか見えないが財界では名高い人物であり、幸枝も偶然のよしみ以前に業界人としてこの夫妻を認知していた。
 「これは!成田さんじゃあないか!」
 大きく手を広げて歓迎する父に対し、
 「伊坂さん、奇遇ですね」
 とやや調子の張った声を掛けた伊坂の旦那は父と握手を交わしたかと思えば、
 「かっちゃんだろ」
 と不恰好なさまで陸軍少将の首に掛かるマフラーの端を持った。
 「勇くんと春子ちゃんは元気かな」
 「ああ。清士君と清義君はどうだい」
 「一緒に来たんだが、気がついたらふらりと消えてしまってね。探してきて呼ぼうか」