寒さ深まる冬の初め、この日の上野には多くの人が集まっている。
 「第一回大東亜戦争美術展」と題され開幕したその展覧会には続々と市民が訪れ、例に漏れず伊坂家も東京府美術館に足を運んだのであった。
 世の中の詳しいことを知らない弟などは目を輝かせて戦場の絵画やポスターを見ていたが、様々な軍人──特に、内密の話をする海軍中尉──と関わっている幸枝にとってはどれも味気のないものであった。
 「姉さん、この絵を見てよ。この軍馬に乗った騎兵がかっこいいんだ」
 「馬が生き生きと描かれているわね」
 それでも幸枝が笑みを浮かべて騎兵の絵を見ているのは、この美術館で何人もの人間が自分を見ているか分からないためである。
 正直なところ、幸枝にはのんびりと絵や彫刻を眺めている余裕は無かった。
 「あら、伊坂工業のお嬢さまじゃなくて?」
 と後ろから声を掛けられたので振り返ってみると、ミンクのショールに身を包み厚化粧をした婦人が立っている。
 (何方だったかしら……)
 頭の中で推測をしながら○×株式会社のご夫人でしたねと答えると、相手は嬉々として尋ねてもいないことを重ねて話す。
 夫婦や家族に出会したときは父と兄に目配せをして呼び、父たちの会話の側でにっこりとした表情を浮かべ、時折頷きながら立っているのである。当然、父や兄から呼ばれることもある。
 芸術を鑑賞する(いとま)さえ許さぬように次々とやって来る知人は商社の代表から私事で訪れた軍の将官や役者迄様々で、彼らは一人一人懇切丁寧に短い会話を交わしては流れるようにその場を去り、また別の知人に対して数分前と同じように振る舞うのであった。