軍帽の(つば)に伸びた手の先は、やや震えている。幸枝は黙って長津の表情を見ていた。
 普段と何一つ変わらない、筋肉の硬直したような顔からは、彼が何を考えているのか、何を思っているのかは微塵も推察することができなかった。
 唯一長津が幸枝の前で表情を崩したのは、相方が幸枝に詰め寄り無下に扱った時のみである。
 「申し訳ないです、本当に」
 幸枝には、どう答えれば良いか皆目見当が付かなかった。
 あの夏の宵からである。目の前に立つ軍人が途端に怖くなった。
 今も見せているこの完膚なきまでに塗り固められた「真心」の裏で、良からぬことを考えているかもしれない。
 最早、この「仕事」さえも何かの口実ではないかと思ってしまうのだ。
 「……何を申し上げれば良いのか、私には解りません」
 俯いた少女の声はいやに落ち着いている。
 「まだ私が怖いですか」
 幸枝は思いもよらぬ一言に、思わず前を向いた。
 得体の知れない希望を抱いたと同時に、憎らしい気持を憶える。
 見た目は士官のこの人は、やはり数ヶ月前の何気ない一言を覚えているというところが誠実で、「軍人」や「士官」の一言で表現するにはしっくりしないのである。
 長津はすぐそばにある長椅子に幸枝を座らせると、軍帽を取り、幸枝の前に膝をついた。
 慌てる様子の幸枝を気に留めず、長津は、
 「貴女には私の嫌な一面を見せましたし、非礼な態度を取り、脅迫めいた行動にも出ました。さらに、平静を欠き、事実貴女を危険に晒しました。そして、貴女の信頼を失いました」
 と緩徐(かんじょ)として話した。膝の上の拳がぴくぴくとしている。