歩いてすぐに到着した邸宅の前には兄の姿が見える。
 「幸枝!良かった」
 「お兄さま……」
 兄は突然家を飛び出した妹の行方を気にしていたが、姿を現したことで安心した。
 しかし、その表情には微かに曇りも見える。
 「ところで、その方は……」
 「あ、ええと……」
 幸枝の隣に平然と立つ軍人の姿を見て、義雄は妹に尋ねた。
 どう伝えるべきか、上手な言い訳は無いかと思案する幸枝を他所に、長津は軍帽を深く被り直して低く明晰(めいせき)な声で、
 「見ての通りだ。偶然この暗い中道端で彷徨(さまよ)っている女を見つけたんでね。では」
 と吐き捨てるように告げたかと思えば、軍帽の(つば)に手を当て、颯爽とその場を離れていった。
 幸枝は思わずその後を追いかけて行く。
 「色々と有難うございました、先程も……」
 と深々とお辞儀をした。
 「……また、お会い出来るでしょうか」
 長津は幸枝の乞うような目から視線を外す。
 「さあ、どうでしょう」
 幸枝は落胆したような溜息を吐いたが、微かな笑みを浮かべて別れを告げた。
 「これで本当に最後かもしれませんが……ご縁があればきっとまたお会いできますね」
 宵闇の中に消えていく白い背を見ながら、幸枝は心の中で手を振った。
 社用の黒い傘は伊坂家の屋敷から見えない程度の距離の路上に横たわったままである。