あの人がきちんと夫人としての役割を果たしていれば。私のお母さんが、居なくなってさえいなければ。
 嗚呼、なんて厭な話なのだろう。
 実母が居ないことも、不甲斐無い継母が居ることも、そんな女から生まれ或いはそんな女の代わりとして生きる私自身も厭になってくる。
 嗚呼、数時間前に泣き腫らした目に、また涙が沁みる。
 もう泣かなくていいじゃないの、私。どうして涙が出るの?
 「伊坂さん?もう暗くなるというのに此処で何を」
 しくしくと啜り泣く幸枝の目の前に、一人の男性が現れた。
 白い革靴とスラックスのその人の手に蝙蝠傘(こうもりがさ)があるのを見て、幸枝は声を上げて泣いた。
 「こんなに酷い一日があるかしら!もう何もかもが厭になるわ、惨め、惨めよ!見ないで頂戴。これ以上目を向けられたら、あまりのミザリーに蒸発してしまいそうよ!いえ、最早そうなったほうが良いわ、誰の目にも私という人間が見えなくなるもの!」
 幸枝は長津がそのままここを通り過ぎることを願って、自身の辿(たど)った方向を指しながら叫んだ。
 その間、長津は表情を崩すことなく、目前で喚く少女を観察している。
 (一体何があったのだろうか、こんなに取り乱して。それに、左頬が少し腫れているように見えるが)
 「長津さん、貴方は私に人を惹きつける才能があり他人に希望を与えると仰ったわね。でもね、そんなものは存在しないの。私にあるのはこのどうしようもなく理解不能な生活と目紛(めまぐる)しい仕事だけよ!」
 長津は指一本たりとも動かさず、自分に指を向ける幸枝のとめどなく涙の溢れる目を見ている。