「幸枝、自動車をと言っているだろう。さあ、今すぐに!」
 「お父様……」
 「早くしなさい」
 「……分かりました」
 幸枝は廊下の壁に掛かった受話器を手に取り、配車の電話を掛ける。
 (お父様ってば、あんな剣幕は初めて見たわ……一体どうなすったのかしら)
 「非情ね」
 電話が繋がるのを待っているところに現れたのは継母である。
 ひどく乱れた髪がいっそう心の見窄(みずぼ)らしさを表しているように見える。
 幸枝は受話器を耳に当てたまま、一歩下がった。
 「お継母様、お父様の御用命ですから……もしもし、はい、伊坂でございます。今すぐに一台お出しいただけるかしら。ええ、はい、どうも。それでは」
 車を呼び終えて受話器を静かに置いた幸枝の頬に、雷光のような一撃が走った。
 「……今……何を、なすって?」
 ひりひりと火照ったように痛む左の頬を抑えた幸枝は、軽蔑の視線を継母に向ける。
 「母親にそんな仕打ちをするなんて、信じられないわ!」
 物理的に衝撃を受けた側頭部に金切り声が響いている。
 「幸枝!どうしたんだい……継母さんも」
 継母が幸枝の頬を打った音とキンキンとした声を聞いて駆け付けたのは義雄であった。
 「……お兄さま、自動車は呼んであるからお継母様をお願い。少し外を歩いてくるわ」
 幸枝は未だ火照るような痛みを感じる左頬を押さえたまま兄と廊下の壁の隙間を抜けて玄関を飛び出した。
 (何が『信じられない』よ。突然母親面になって義理の娘を平手打ちする方がよほど信じられないわ、理解できない)
 夜が近づき徐々に冷たくなる空気が頬に染みて、更なる痛みを感じた。