伊坂工業の夫人の役割も果たさず、家庭の仕事もせず、義理の子供達のためにもならず、自分と息子のためにしか生きないこの女を心配する筋は一寸たりとも無い筈だが、現状父の妻であり自分の継母である以上、無下に扱うこともできない。
 「……あなたの言う通り、空襲に遭っては困るから茨城へ行くの。旅費は緊急の時のために残しておいた私のお金を使うわ」
 しょぼくれた声を出す継母に厳しい目を向ける幸枝は、この人はなんて身勝手なのだろうと呆れている。
 顎に手を当てて考える様子を見せた父は、
 「そうだなあ」
 と悩むような声を出す。
 「お前は茨城へ行くと良い。昭二は……」
 まだ学生の身分である子供の(つぶら)な瞳がこちらを見つめている。
 「昭ちゃん、お母さんと一緒に行くわよね?」
 嬉々として尋ねる母の期待を切り裂くように、昭二は首を横に振った。
 「駄目よ、東京は危ないから、一緒におばあちゃまの家に行きましょうね」
 息子を宥めるべく必死に声をかける母に冷ややかな視線が当たる。
 「僕は東京に居るんだい。母さんだけ行けばいいじゃないか」
 ぶっきらぼうに突き返した昭二は、食堂を走って抜けていった。昭二が部屋から出ていったのを確かめた父の目つきがガラリと変わる。
 「さあ、今すぐにでも行きなさい。今ならまだ遅くはないだろう」
 冷酷な声が食堂に響く。
 兄妹は突然の父の変貌ぶりに声も出せなかった。
 「明日発つことにします」
 涙交じりの声で吐き捨てた妻は、食卓を立とうとする。
 「今すぐに行きなさい。幸枝、自動車を手配してくれ」
 父は一言で妻を牽制し、躊躇する幸枝に重ねて指示をした。