「貴様、先ほどの光景は全て見ていたぞ」
 突如として二人の背後から低い声が聞こえた。
 二人が同時に振り返るとそこにいたのは一人の憲兵で、幸枝の方を指差している。
 「その女を泣かせていただろう、何か悪事でも働いたのではないだろうな」
 長津は自身に詰め寄る相手をきつく睨み返した。
 (憲兵か、面倒なことになったな……跡をつけられていることに気が付かなかったとは。何処か物陰にでも隠れていたのだろうか)
 「私の後ろに」
 心配の目を向ける幸枝を背後にやった長津は、
 「悪事など働いていない。もし仮に私が彼女に暴行を加えていたならば別の話だが、君はその目で私がそのようなことをしている場面を見たのか」
 と低い声で話す。
 憲兵はしどろもどろになって動揺した様子であったが、長津は拳を作って見せ、さらに揺さぶりをかける。
 「答えろ、実際に見たのかと訊いている。私が、この手で、何かしたか」
 「み、見てはいないが、俺は確かにこの目で貴様の後ろに居る女が泣いているのを見た!」
 (わざ)とらしく声を張り上げた憲兵に対して、長津は依然声を低くしている。
 「それが何だ、何の証拠になる。私が『悪事を働いた』証拠になるとでも考えているのか。されば、それは貴様の偏執(へんしゅう)だ」
 長津の背後から僅かに顔を出した幸枝は、額に冷や汗を浮かべる憲兵に対して、
 「この方が大変感動的なお話をしてくだすったので、私はそれで泣いていたのです」
 と付け加えた。
 「立場を弁えろ」
 そう吐き捨てた長津は満身創痍の表情の憲兵を後に再び歩き出した。