突然の霧雨に濡れた九段(くだん)の街は、冬の終わりの穏やかな寒さを呼び起こしたように冷えている。
 幸枝の海軍との『仕事』は珍しく二ヶ月ほど進捗が無かったが、彼女はいつものように小さな紙切れに記された時間に指定された場所へ向かった。
 軍人会館の傍で社用の黒い雨傘から滴る雨粒を眺めていると、こちらに早足で向かってくる人物の姿が見えた。
 (あら、今日の人は珍しく五分早いわね……いいえ、あれは……!)
 「急に降ってきましたね」
 幸枝は目の前にやって来た軍人を傘の中に入れた。
 純白の軍服に身を包んだその人は、数ヶ月前に京橋で会った人物である。
 「……長津さん」
 「やあ、伊坂さん。良かった」
 (良かった、とは一体……?)
 長津の何気ない一言が引っかかる幸枝は、何も言わず、頭の中でその意図を推察することにした。
 (この間のことかしら……私も会社も全く影響はなかったけれど)
 着実に戦争の足音の近づく帝都であったが、伊坂工業のある本所に被害はなく、いつものように仕事を続けている。
 数十秒の間は二人の頭上で雨音が響くばかりであったが、幸枝が傘を長津に差し出したのと引き換えに、茶封筒が差し出された。
 「本来の『担当者』の方が来られなくなった理由はお伺いしてもよろしくて?」
 長津は平然とその場で封筒を開封する幸枝に驚きながらも、
 「私も詳しいところは存じ上げないのですが、恐らく急用か、何処か別に向かうところができたのでしょう」
 と答えた。
 幸枝は長津の示唆することがはっきりとは掴めなかったが、それよりも注文書を見ることに集中している。