うましか


 その日の夜、僕は勉強机に何時間も向かって、A4の紙に大きく字を書いた。「鹿」と。中学の美術の授業で学んだレタリングの仕方を思い出しながら自分なりに頑張ってみたけれど、彼女ほど上手くはできなかった。

 きみに「馬」と言われたから、僕は「鹿」と返す。きみは昨日「消極的な話題は避けて相手が察してくれるのを待つ」と言っていたけれど。机に「馬」なんて書いて僕が察するのを待たずに、伝えてくれたら良かったのに。回りくどいよ。これで僕が気付かなかったら、助言の意味がないじゃないか、という。ある種の意趣返しのつもりだ。

 それから、僕らは何度か本の話をしたよね。きっともっと仲良くなれたのに、僕らはすれ違っても挨拶すらしないほど、ただの同級生だった。誰にでも優しく、誰とでも仲が良かったきみは、僕の存在に気付かなかった? 馬鹿だなあ、という意味もこめて。


 翌朝、まだ誰も登校していない早い時間に学校に辿り着いた僕は、その紙を、あらかじめ調べておいた彼女のげた箱にそっと入れた。

 彼女がこの「鹿」の字を見て、どう思うかは分からない。連絡先も知らないし、進路も分からないままだ。それに、二年も前に僕の机に書いた「馬」の字のことなど、忘れてしまっているかもしれない。そのくらい彼女の高校生活は忙しく、抱えきれないほどの思い出があるはずだ。
 情けなく不甲斐ない僕にできるのは、この「鹿」の字を見て、彼女が一瞬でも、ただ一度同じクラスだっただけの僕を思い出してくれることを、祈るだけだ。

 どれもこれも、あまりの他力本願に笑ってしまったけれど、扉を閉めると、肩がすっと軽くなった気がした。

 何年か経って、いつか同窓会や同級会で再会することができたら。僕が今よりましな大人になっていたら、彼女を捕まえてこの話をしよう。彼女は「青くて若くて馬鹿だったね」と言って笑ってくれるだろうか。


 しんと静まり返った廊下を歩きながら、最後に学び舎の様子を目に焼き付けておこうと思ったけれど、それは叶わなかった。涙で視界が滲んでいたせいだ。

 そうやって、僕の高校生活が終わっていった。
 これが、この高校で起きた、全てのことだ。