「十年も前のことなんてもう思い出せないと思っていたけど、少しのきっかけで思い出すもんだよね」

 呟くような声。小林くんはこちらに背を向けたまま窓枠に手を置いて、そんなことを言った。そうだね、と同調しながらその背中を見つめる。そういえばあの頃は背中ばかり見ていた。隣にも正面にも立てないから背中。密かな片想いの証だ。盗み見をしていたという証でもある。

 十年前と違うのは広く大きくなった背中と、振り返って「笹井さん」と呼んでくれるということ。

 振り返った彼は、わたしと目が合うとにっこり笑って、真っ直ぐに、ある席に向かう。わたしも言葉の続きを待ちつつ、彼の姿を目で追った。彼が立ち止まったのは、一番後ろの、彼が一年生の終わりまで座っていた席だ。そして懐かしそうに机を撫でてこう言った。

「一年の冬に、俺がこの席だったのおぼえてる?」

 どう返答するべきか迷った。その席はあの日わたしが恋を終わらせた席だ。もしかしたら彼は、あの落書きのことを思い出したのかもしれない。それなら、あの時のあの幼稚な恋を笑い話にするチャンスだと思った。

 少しずつ速くなっていく鼓動を感じながら、わたしは静かに頷いた。
「おぼえてるよ」
 小林くんが落書きの話題を持ってきたら白状しよう。十年前の情けない想いを、笑いながら。そう決心した、のに。

「ある朝登校したら、俺の机にでっかく馬って書いてあってさ」
「うん」
「誰がやったか不明の未解決事件だったけど」
「うん」
「犯人は笹井さんでしょ?」
「へ?」

 予想外の展開だった。あの日のことなんて彼は詳しくおぼえていないだろうし、思い出したとしても誰がやったかなんて気付いていないだろうと思っていたのに。全て、ばれていたのか。
 しらを切っても仕方がない。素直に頷くと、彼は「やっぱりね」と穏やかに笑った。

 さあ、どこから話そうか。今まさに青空の下で熱戦を繰り広げている、名前も知らない十歳近く年下の後輩たちには申し訳ないけれど。彼らと同じ高校生だった頃の、幼稚で情けない恋に、決着をつけるときだ。
 十年越しの告白は、さぞ面白い笑い話になるだろう。



(馬編・了)