恋がはじまる日


 外は相変わらずの曇天。というよりも、もう今にでもまた大雨が降り出しそうな暗さだった。雨の匂いがして、遠くの空が光っているような気がする。先輩も空を見上げながら同じことを思ったようだった。


「雲の流れが速いね、急ごうか」

「はい!」


 遠くで小さく雷が鳴った。

 ちらっと先輩の横顔を見ると、相変わらず穏やかそうな表情をしている。この人が怒るところは見たことがない。どんなにきつい練習でも難なくこなし、後輩にもすごく好かれている。


 そういえば先輩って恋人いるのかな?そういう話って聞いたことがない。私、隣歩いていて大丈夫なのかな。彼女さんがいたら、この状況をよく思わないのではないだろうか。この機会に聞いてみようかな。先輩に対して失礼かな。


 そう迷っていると、先輩の方から声が掛かる。


「佐藤さんって、好きな人はいる?」

「ふぇ!?」

 私への突然の質問に声が裏返ってしまった。それはまさに私も聞こうとしていたことで。


「い、いません!その、お恥ずかしいことに初恋もまだなんです」


 先輩は一瞬驚いたように目を丸くしてから、いつもの穏やかな表情に戻って言う。


「恥ずかしいことなんかじゃないよ」

「あ、ありがとうございます…えっと、失礼かもですが、先輩は好きな人いらっしゃいますか?彼女とか。私、一緒に帰ってて大丈夫かな?って思って」


 そうおずおずと尋ねると、これまた穏やかな調子で返答があった。


「彼女は残念ながらいないよ、気になっている女の子はいるんだけどね」

 そう話す先輩の表情は少し切なげに見えた。

「そう、なんですね」


 先輩、気になる人がいるんだ。恋、してるのかなぁ。先輩が好きになる人ってどんな女の子なんだろう。いつもにこやかな先輩が珍しく少し困ったような表情をしていて、もしかしてうまくいっていないのかな。お相手の方は難しい方なんだろうか、などと勘ぐってしまった。


 そんな思考を巡らせながら視線を落とし、ふと自分の鞄を見ると「あれ?」いつもの見慣れた鞄になにかが足りないような気がした。