さらに優柔不断で困ることで自分の心持ちに対することがある。
 例えば友人と国内旅行をしようとなったとき私と友人は行先を決めなければならないが、優柔不断な私は四十七の都道府県からどれを選ぶかなど一生決められまい。
 懸命に地図を眺めたり旅行雑誌を読んだりはするが、結局どこも素敵だと思って決められず、友人に「あなたが決めていいよ、私って優柔不断だから決められないの」と言う羽目になる。
 この時友人が「じゃあ私が決めるね」と言って行先を決めると、私は行先を決めるという一大事を譲った代わりに優柔不断を自称した虚しさを手に入れる。
 決め事に際して毎度「私って優柔不断だから」と公言する度に心の中の何かを削っているような気がするのだ。
 反対に友人が「私も優柔不断だから決められない」となったらもう誰も行先を決めることはできず「あなたが決めて」と譲り合うことになり、最終的に行先以前に誰がそれを決めるのかを決めるという遠回りになってしまうのである。
 私の場合は優柔不断のくせに短気なところがあるので、
 「やっぱり旅行はやめにしよう」
 と言うか、
 「ええい、指差しで決めてしまえ」
 と自棄(やけ)になって目を(つぶ)り、日本地図に人差し指を押し付けるだろう。
 実は意外と後者の方が良い結果を産むことが多いように思える。

 優柔不断が自分の精神衛生に良くないということが分かるのは私自身が優柔不断を卒業しているからこそである。
 物事が決められなくて気を揉んでいるより、直感で選んだことや運任せにしたことを受け入れて過ごしたほうが万事とんとん拍子なのだと知った時から、私は何かに迷った時は直感でこれだと思ったほうを選ぶようにしている。