そういえば、今日ハリーと会ってから『エオノラ嬢』と呼ばれていない。そのことに今更ながら気づいてクゥへと視線を向けると、何故かクゥも少しだけ驚いたような表情をしていた。
「……つまりクゥはハリー様よりも、侯爵様と早く仲良くなって欲しい、と思っているんですね?」
「恐らくそうだろうな。まったく、飼い主想いの狼だ。というわけで早速今ここでクリスと呼んでみてはどうだろう?」
「ええっ?」
 予期せぬ提案にエオノラは素っ頓狂な声を上げた。


 どうして本人がいないのに彼の名前を呼ばなくてはいけないのだろう。それはそれで気恥ずかしいではないか。
 ハリーは人差し指を立ててくるくると回しながら理由を説明した。
「これまで『侯爵様』呼びをしていたのだから、自然と名前で呼ぶには練習が必要だろう? 本人は屋敷に引き籠もってこの場にいないのだから良いじゃないか」
 確かに今練習しておけば自然と『クリス様』と呼べるようになるだろう。だが突然彼の名前を気安く呼んでも大丈夫だろうか。
 漸く縮みだした彼との距離がまた遠のいてしまうのではないか。
 そんな不安に駆られていると、ハリーがエオノラの表情を見て口を開いた。

「突然クリスを名前で呼んだところで嫌悪感なんて抱きはしない。あいつは狭量な人間じゃないから」
 これはクリスをよく知っているハリーだからこそ、断言できる言葉だった。今はハリーを信じるしかない。
 エオノラはこっくりと頷くと、少しだけ緊張を覚えながらクリスの名前を呼んだ。